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2018年10月15日19:22

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十二日目の日記。

今朝は魘されて目覚める。有り体に言って悪夢であるが中々珍しいタイプだったので起きてからしみじみと反芻してしまった為記憶に定着してしまった。悪夢は往々にしてインパクトは強く「厭な夢だった!」という衝撃にも似た思いと嫌悪感のみが残り、肝心な内容は記憶に定着させない侭に忘却してしまったりする。此処で一応断りを入れておくと、この日記に於いて「今日見た悪夢」の内容には一切触れない。理由は他人の夢の話くらい詰まらないものは他に無いからであり、如何に読む人間が居ない日記であるとは云えそれ位の慎みは持ち合わせるべきであろうと考える故である。忘却に任せた侭に「厭な記憶」だけを賞味するのも悪くはないがどうせ記憶に定着してしまったものは存分に味わうべきであろう。通常の悪夢であれば「夢を見つつ厭な思い、経験をする」事が多いのだが(一応個人的には、と矢張り断りを入れておく)その不快感の故に「それが夢である事」を認識してしまい、それを夢と知りつつ享受する事もまた侭ある(か否か他の人は分からないな、矢張り)。それは夢と認識しながらその夢の不快を「実際の体験と近似なそれとして」体感する、という奇妙な分裂の体験である。夢と認識しつつ知覚としての不快が二重映しになる状況がその夢からの脱出(目覚め)を希求させ、それも相俟って悪夢を忘却に拠って処理しようというのはある意味当然の意識操作であると云える。これはほぼ無意識の行いであると云えるので、大半の悪夢は忘却の海へと還って行く。だが、偶にその無意識的意識操作を「惜しい」と感じさせるだけのインパクトのある夢がごく少数存在し、その夢内容を反芻する事で記憶化する。本日の悪夢はその欲求を喚起するものであった事は特筆に値する。何故なら、それは「悪夢」では無かったからだ。少なくとも見ている間は。懐かしく慕わしく、涙が出る程愛おしい時間であった。そうした夢を人は「悪夢」とは称さないだろう。だが、一旦目覚めたその瞬間には、自分の現況を即確認し、それが「今では無い」事に深く安堵し、もう一度思い返して見て密やかに慄くような恐怖に似た感を抱くのであれば、それは歴とした悪夢であろう。ただ、前段で述べたように「見ている間は悪夢とは認識されず覚醒した時点で悪夢へと変貌する」経験は中々覚えが無く、極めて新鮮でありそこは感興が乗ったのであった。また、「夢を見ている時点では悪夢では無かった」事が悪夢化する重要なキーである点は「批評的に悪夢化する」意識操作の故でもあり、その経験もまた無かった事が挙げられるか。さて、十二日目である。今日は取り立てて日記に記すような事は無かった。故に簡潔にこの日記を終える。そんな日もあるさ。
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