JRや地下鉄の駅の標示に、ハングルと中国語が添えられている風景は、もはや、普通になった、と言えるネ。
足立区の田舎のごとき、舎人ライナーの駅でさえ、
出口
출구
と書いてある。 chul-gu
「入口/出口」 というコトバは、中国語にも、韓国語にもある。だから、上の例でいうと、
中国語が添えられていない
わけだ。なぜなら、「出口」 は、日本語でも中国語でも 「出口」 だからだ。
もし、多少とも中国語を勉強してきたヒトなら、この
中国語でも韓国語でも、出口は “出口” である
という事実に、以前から引っかかっている、と思う。すなわち、
「入口/出口」 という中国語は、中国語っぽくなく、
どことなく、日本語の体臭がする
のである。これが、なぜか、と問われると困るが、おいおい、説明もできよう。
…………………………
ここで底を割ってしまうと、
「入口/出口」 は日本でつくられたコトバであり、
中国語や韓国語は、これを自国語音で読み換えて借用している
のである。おそらく、日本が、朝鮮・台湾・満洲を支配下に置いたり、上海租界へと進出し、さらには、日清戦争において、長期に日本人が大陸に居すわったあいだに、中国語に入り込んだものだろう。
しかし、 entrance / exit を指すコトバとしては、すでに、中国語でも韓国語でも、「入口/出口」 が主要な第一語彙であり、言い換えるのが少々むずかしいのだ。
韓国では、長年、「国語醇化 (純化) 運動」 というものがおこなわれており、日本統治時代に入り込んだ日本語を言い換える運動が継続している。継続している、というのは、日本語彙の中には、韓国語に深く入り込み、言い換えが困難になるほど順応してしまった語が多いことを示している。
中国語、韓国語において、「入口/出口」 の同義語、言い換えを見てみよう。あとに添えたのは Google Korea における、「韓国語のページ」 のヒット数である。
【 韓国語 】
入口
입구 ip-kku [ イップクゥ ] …… 46,000,000件
들어오는 곳 tɯrɔonɯngot [ トゥロオヌヌゴット ]
…… 210,000件 ※「入る場所」 という句
들목 tɯlmok [ トゥるモック ] …… 22,800件
※「入り首」。“入る” という動詞の語根と、「要所」 を指す “首”
出口
출구 chulgu [ ちゅるグゥ ] …… 27,700,000件
나가는 곳 naganɯngot [ ナガヌヌゴット ]
…… 52,300件 ※「出る場所」 という句
날목 nalmok [ ナるモック ] …… 3,820件
※「飛び首」。“飛ぶ” という動詞の語根と、「要所」 を指す “首”
これを見れば、「入口/出口」 という単語に関するかぎり、韓国における 「純化運動」 はまったく成功しなかった、といっていい。
なお、「入口」 を音読みすると “ニュウコウ” だが、歴史的かなづかいでは、
にふこう
である。つまり、「ニュウ」 は、もともと、 nip 「ニップ」 なのであり、これを 「にふ」 と写したわけだ。だから、朝鮮語では、 nip であった。ただし、
朝鮮語話者は、語頭のニャ、ニ、ニュ、ニェ、ニョが不得意だったため、
nip 「ニップ」 → ip 「イップ」 となってしまった
のである。だから、「入口」 は “イップクゥ” となるわけだ。
「少女時代」 は “ソニョシデ” かもしれないが、
「女子」 は “ヨヂャ”
である。
今度は中国語である。ヒット数は 「百度」 (パイドゥ) によるが、100,000,000件というのは、おそらく、カウント可能な上限数なのだろう。
【 中国語 】
入口 rùkǒu [ ルーこウ ] …… 100,000,000件
進口 jīnkǒu [ チヌこウ ] …… 100,000,000件
※「入港する」、「輸入する」 の義も。
門口 ménkǒu [ メヌこウ ] …… 100,000,000件
※「出入り口」、「戸口」、「玄関」 の義。
出口 chūkǒu [ ちゅーこウ ] …… 100,000,000件
ひじょうに不思議だが、中国語では、「出口」 の同義語・言い換え語は見当たらない。
「入口/出口」 には、本来の中国語の用法がある。
入口 「口に入れる」、「輸入する」
出口 「口をついて出る」、「出港する」、「輸出する」
「入口/出口」 が日本語的だ、という感覚は、上の “本来の中国語の語義” と比べるとわかる。中国語の 「口」 にも “人が出入りする場所” という意味があり、「入口/出口」 という熟語は “額面上は、どこにも誤りがない” のだが、それでも、どこか、
言語センスの勘定が合わない
のである。
とは言え、中国語で 「出口」 を言うには、「出口」 と言う他はないのだ。これは、
「入口」 と 「出口」 を分ける施設というものじたいが、
近代西洋的な文化から生まれたものだからだ
というふうに考えることができると思う。つまり、本来、ニンゲンの出入りする場所には、「門口」 “出入り口” があればいいのであって、近代社会における 「大量のニンゲンを誘導するためのしくみ」 が 「入口/出口」 をつくった、と言えるかもしれない。
……………………………………………………
ここからは、まったく別のハナシである。
「出口」 シュツコウ
日本語で 「出口」 を “シュツコウ” とか “シュッコウ” と読んだことはない。そもそも、和語に漢字を当てただけである。それが、朝鮮と中国で、本来、存在しない漢字音を生んだのである。
「出口」 출구
chulgu [ ちゅるグゥ ]
この 「出」 を chul 「チュル」 と読むのはおおいに不思議ではないか。
韓国語を学び始めたヒトは、おおいにフシギがってシカルべき、と思う。実際、アッシじしんは、おおいにフシギに思い、韓国語・朝鮮語の解説書、入門書をカタッパシから読んだが、どこにも理由が説明されていなかった。
こういうコトガラってのは、よくあるのだ。アッシに言わせれば、
語学教師の怠慢
である。自分が教えていることにマヒしているのだ。
たとえば、
ロシア語の Я は、なぜ、R の裏返しなのか、ということについて、
チャンと説明できるロシア語の専門家は、たとえ、「教授」 の肩書きがあろうと、
ほぼ、0%と言っていいと思う
のだね。
…………………………
「出」 のような漢字の音節末には、もともと、
-t
という音があった。とはいえ、英語の hit のように破裂させない。
入破音
と言って、舌は -t の位置を取るが、口腔内の気圧を高めるだけで破裂させないのだ。こういう子音を持つ言語は多い。たとえば、タイ語がそうだろう。いや、極東から東南アジアにかけて、むしろ、こういう発音をする言語のほうが多いかもしれない。
ただし、標準中国語 (北京語) は、この -t という入破音を喪失して現代に至っている。ただし、広東語や上海語などには残っている。
そして、唐代というような古い時代に漢字を学んだ朝鮮語のような言語にも残っている。
日本語は開音節言語であったために、
「イチ」 とか 「シュツ」
のように、 -t を 「チ」、「ツ」 で写してきた。
…………………………
ところが、ここに1つのフシギがある。
朝鮮語には -t という入破音があるにもかかわらず、
漢字音の -t を -t ではなく、
-l で写してきた
のである。
この件について、しばしば、
朝鮮語では、漢字音の -t が -l に変化した
と書かれることがある。しかし、これはおおいにオカシイ。
つまり、古代から現代に至るまで、朝鮮語には -t という入破音が存在したのである。それにもかかわらず、
朝鮮語で、漢字の音節末の -t のみ -l に変化した
というのだろうか。
そのような器用な変化を起こすことが可能な話者であれば、
そもそも、 -t を -l で発音するような変化は起こさない
と言える。もし、こういう不用意な発音の変化を起こすとしたら、そうした話者は、
朝鮮語彙と漢語彙を区別したりはできない
と言ってよかろう。それと、
漢字の -t のみ 100% -l に変化させる
という超人的な自然言語の変化はありえない。
と、すれば、
朝鮮人は、初めて中国語に接したとき、その入声 -t を -l に聞いた
のである。また、
中国語の入声 -t は、朝鮮人に -l に聞こえるような音だった
と結論せざるをえない。
…………………………
朝鮮語では、日本語のカナのような表音文字がなかなか実用化しなかった。ハングルが制定されたのが、15世紀の半ばである。
なぜ、このように表音文字の導入が遅れたかというと、朝鮮では漢文が公式な言語であったからだ。
ただ、古代朝鮮語の時代から、日本における 「漢文の読み下し」 のようなことがおこなわれていた。漢文を読み下すときに、日本語で送りがなを送るように、朝鮮語でも、
口訣 (クギョル)
という補助記号が用いられた。
朝鮮・韓国語では、対格 「〜を」 をあらわす接尾辞は、
-ɯl [ 〜ウる ]
である。
朝鮮で漢文を読み下す際、名詞に 「〜を」 が付く場合、これに、
乙
という口訣を用いていた。つまり、漢字の 「オツ」 であるね。中国語の中古音では、
乙 ĭět [ イエット ]
という音だったと推測される。これを日本人は 「オツ」 と写した。朝鮮人は、
乙 을 ɯl [ ウる ]
と写した。まったく、朝鮮語の対格語尾と同じ音なのである。つまり、
(a) 朝鮮人は、中国語の入声 -t を -l と聞いた。
(b) 朝鮮語の対格語尾は、古代には -ɯt だったが、
のちに -ɯl と変化した
のどちらかが 「真」 だと結論せざるをえない。しかし、 (b) はあらゆる資料から否定されるだろう。ならば、 (a) が真実なのである。
…………………………
これに付随するオモシロイ現象がいくつかある。
朝鮮漢字音の研究者によると、チベット語にも、中国語の -t を -l で写しているものが見つかるというのだ。残念ながら、具体例がどのような単語なのか、チベット語に関する知識が乏しくて具体例を呈示することができない。
もう1つ興味深い例が、
サンスクリットの -r が中国語の -t に写される例がある
のである。サンスクリットの仏教の経典の中国語訳は、4世紀初頭の鳩摩羅什 (クマラジュウ) に始まる。玄奘三蔵の新訳が7世紀。
サンスクリットの kárman- [ ' カルマン ] 「行為、行動」 は、仏教では 「業」 (ゴウ) などと言う意味で用いられるが、天台宗、浄土宗では、これを 「かつま」 と言い、真言宗では 「こんま」 と言う。すなわち、 kárman- の音訳語で、
羯磨
という文字で書く。これを中国語の中古音に復元すると、
羯磨
kĭɐt-muɑ [ キヤットムワ ]
となる。「かつま」 はこれに近い音である。「こんま」 は t-m が m-m と同化したパーリ語音を聞き取ったものかもしれない。
実に興味深いことに、朝鮮語では、これは、
羯磨 갈마
kal-ma [ カるマ ]
となる。朝鮮語の -l は、前後の条件による r の異音にすぎないので、
朝鮮語で、サンスクリットの kárman- がフリーズドライで再生した
と言えるのだ。
もう1つ、似た例をあげる。
達磨 だるま
である。 dharma- は、サンスクリットで 「法、裁き、実践」 という意味の単語である。また、南インドの僧で、中国に渡って、禅宗を広めた。日本では、「達磨大師」、「だるまさん」 として親しまれている。
この 「達摩、達磨」 の中国語転写も -r が -t になっている。中古音に復元してみる。
達摩、達磨
dɑt-muɑ [ ダットムワ ]
やはり、「だつま」 なのだ。日本語でも、「だるま」 を 「だつま」、「たつば」 と言う例はあり、また、
数珠についている大玉を 「達摩」 (だつま)、すなわち、“法” と言う
のである。
中国語の入声 -t を、日本語で 「る」 で受ける例はなく、日本語の 「だるま」 という音は、あきらかに、朝鮮語から来ている、と言える。つまり、
朝鮮語経由であったために、偶然、サンスクリットと同じ音に復元された
のだ。
…………………………
中国語学では、入声 -t とされている音の
インプットとアウトプットに -r が現れる
という現象を、どのように合理的に説明できるだろうか。少なくとも、
朝鮮人が漢字を学んだ時代の中国語の -t と朝鮮語の -t は
かなり異なる音だった
と言うべきだろう。
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