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2018年09月22日04:16

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フィヒテ哲学のエッセンス

ニワトリやアヒルは卵から生まれて最初に見た動くものに付いていくようになるのだけど、それは自然状態では親だから、親が刷り込まれる。

ローレンツという生物学者が鳥の卵を親から引き離して自分の許に置いたところ生まれてきたヒナは自分を刷り込み自分を追い掛け続けるようになった、という実験結果は有名である。

シマリスは小さい頃から飼わないと飼い主に懐かない、というふうに、動物は刷り込み可能な臨界期を過ぎると他者を内面化できなくなることが、知られている。

親にでなく兄に育てられた僕は、自分を否定する兄という他者が内面化されているものの、自分本来の感じ方に反する兄の考え方が心の表面に貼り付いているのみなので、表面によって覆い隠されて自分が本当は何を感じているのかが分からなくて、考えに実感が沸いていない、というふうに、感じているレベルと考えているレベルという二つが離反しているのに対して、健常者たちは、親に放置されて育って他者が内面化され切っていないままで臨界期を過ぎた僕と違って、内面化された他者と自己という二つが一致しているから、直感に裏付けられた思考が出来る。

直感に裏付けられてこそ、複雑な現実を単純に割り切って捉える、論理の筋道が一本道であるような思考は、可能ならしめられるのだけど、感じているレベルから遊離した所に考えているレベルが空中楼閣のように築かれていることによって考えが実感に裏付けられていない僕は、筋道が一本道の首の皮一枚でしか繋がっていない論理は心許なくて、何本もの糸の結節点である網の目みたいな複雑に入り組んだネットワークをなす論理でしか考えられない。

複雑すぎて自分の思考能力の限界を超えるために、動作が重たくなっていって情報処理能力を超えてフリーズしてしまうパソコンみたいに、頭脳が鈍重なのだ。

考えが大風呂敷を広げすぎてまとまらないのだ。

人間は現在目の前から他者が過ぎ去った後も内面化された他者という刺激に触発され続けることが出来ることによって行動し続けることが出来る、という意味で、親という他者が内面化されるということは、内発性が植え付けられて自発的人間になるということだ。

このような、自律的人間になることこそ、大人になったときに、求められるのだけど、自律的になるためには、感じているレベルと考えているレベルという二つが自己一致する必要がある。

二つが一つになるまでは、行動して感じたことが気付きに高まることなく水の泡に帰して、現実を経験しても学習能力がないために、経験の意味を分かるために長い時間を掛けて考えなければ、ケロッと現実感覚を喪失してしまう以外になく、草の根的な下からのものが育たず、いつまでも頭でっかちで行動力がないことに変わりなく、エンジンを搭載していない紙飛行機のように能動性を欠く受動的な存在のままだからだ。

そして、感覚的な認知が出来ないからこそ、仕事するために必要な作業能力や処理能力がないのだ。

僕にとって必要なことは、自分本来の感じ方に基づく考え方とそれに反する兄の考え方という二つが見解の一致を見るまで、考え合わせることである。

もちろん、単純な考えと単純な考えを考え合わせて複雑な考えにすることは、哲学という営みだ。

そこで、僕が学んだ、フィヒテの哲学を、以下に、僕なりの言葉で説明することにする。

健常者がメンヘラのリストカットの跡を見るとギョッとして危ない人だから近寄らないようにしようと考えるのは、否定の刃が自分に向かっているということはそれが容易に自分以外の者に向かい得るということだと知るがゆえにである。

肯定されて育った健常者は肯定のオブラートで自他を包む方向で努力しているからこそ、否定されて自己否定するようになったメンヘラとは棲み分けようとするのだ。

タトゥーは精神医学ではリストカットと同じ自傷行為だとされるのだけど、タトゥーはヤクザの象徴であるとされることからも分かるように、自分を傷付ける者は他人を傷付けるから、メンヘラとヤクザは、否定の刃を振り回す危ない人であるという意味で、同類である、として括られる。

そして、否定はいけない、ということで、銭湯などではタトゥーはお断りとして、肯定のオブラートで自他を包む方向で努力している堅気の人間は、ヤクザを締め出して、棲み分けようとするのだ。

自分を否定する他者も肯定する、ということで、自己否定を追求してきた、今までの僕は、自分以外の者を肯定するためには自分を否定しなければならない、という前提に立っていた、という意味で、一方を肯定すれば他方を否定することになる、白か黒かしかないとする、二分法思考に、支配されていたわけだけど、白も黒も両方否定しないことが白も黒も兼ね備えているグレーゾーンという三つ目を思考に入れることで可能になる。

このように、二項対立を乗り越えて両立を実現してこそ、否定されて育ったメンヘラやヤクザの気持ちも、肯定されて育った健常者や堅気の人間の気持ちも、分かってあげられることになるのだろう。

健常者や堅気の人間にとっても、自分を否定する他者も肯定する、ということを、追求していけば、他者が言いたい放題言って来ても言い返さずに泣き寝入りする、ということを、繰り返すうちに、腹の中は黒い感情がグルグルすることになってくるわけで、表は、白という肯定だけど、裏は、黒という否定である、という裏腹な人間に、なっていく。

内心は大激怒していても表向きは穏やかに振る舞って見せる修行が人生だと覚悟を決めて修行を実践しているうちに、理性によって感情を抑える訓練が板に付いてきて、自己一致して表面上の愛想でない内心からの温かみが外に滲み出て来る段階に至ったならば、一つのものを二つに分離させるのが否定であるのに対して二つのものを一つに融合させるのは肯定だから、感情を意識下へと抑圧してそれが意識上に上って来ないようにするためにそれとは反対の傾向を理性が意識上に持って来る、という反動形成に、支配されていて、意識上の理性が意識下の感情を否定している、という段階は、乗り越えられて、理性も感情も肯定している、というふうに、健常者はメンヘラを、堅気の人間はヤクザを、許せるようになって、共存出来るようになるだろう。

子供は、親という他者を内面化して、それを感情を抑える理性とする、というふうに、生来は一つだった自己がかけ離れた二つに分離することこそ、人生の精神面でのスタートラインに立つことで、分離している二つを融合させて一つにすることが、理性と感情が相容れない段階を超えて、相反しないような大人になることだ。

親という他者を内面化してもう一つの自己として二つの自己を一つにするまでが都会的に洗練された故郷喪失者が喪失した片割れを取り戻すまでである。

他者というエイリアンはどこからやって来たのかと言えば、母親の胎内という天国を追放されて地上という胎外に生まれ落ちるまでは母子一体だったことから分かるように、自己が疎外されるというエイリアネーションこそ、大人になるまでに自己という一者に他者を繰り入れることを可能ならしめるのだ。

そして、自己から繰り出された他者たちが自己に繰り入れられるという同じことの繰り返しでもその意味や深さは違うからこそ、地上に派遣されて来ては死んで天国に帰還する、ということの繰り返しが繰り返しのままで進歩していることになって地上の天国の実現に向かって歩みを進めることになるのだから、繰り返しのやり直しを何度でも行うことに、積極的意義がある。
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