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2017年08月22日02:31

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言葉と物

現物を持って来なくても現物の代わりになる言葉を持ち出すことによって現在目の前にない物について思考できるようになった動物が人間だ。

コミュニケーションの手段という対外的なものだった言葉が内面化して思考の道具になるという人類史を個人史が辿り直すことを教える発達心理学によれば、赤子は、まず言葉を口に出して言いながらでなければ考えられない段階から出発して、ついで言葉を口に出さずとも念頭に思い浮かべながらならば考えられる段階を経由して、しかるのち言葉を念頭に思い浮かべずとも考えられる段階に至る。

このような、精神発達の最終段階に至って初めて可能になる、言葉に頼らない思考のことを、直感と言うのだけど、直感が培われるために必要なのは、赤子時代に母親から言葉のシャワーをふんだんに浴びることで、もしも言葉という刺激の少ない環境で育ったならば、僕みたいに言葉という思考補助に依存しなければ考えられない段階に留まったままで大人になる。

僕の言語表現が説明口調でしかありえないのは思考が対外的なものに留まっていて内面化していないからだけど、言葉の意味が心の古層に沈殿している健常者たちが説明するのは困難でも直感的に分かっていることについて僕は言葉で説明を組み立てて見せるために分かっているかのように誤解されやすく実際以上に頭が良いかのように思われがちである。

本人が言っているのだから分かっているのだろうと思いきや、実は自分が言っていることを自分が一番分かっていなくて、言葉の上っ面に囚われていてその下層に下りていくことができないでいるのだ。

言葉の上っ面というのが縦横の二次元の平面のことだとすれば表面を突き破って言葉の指示対象という奥行き方向へ下りていくことが三次元の立体を見ることだ。

立体像が結ばなくて、立体を角度変えて見たらどういう平面に見えるかという応用問題が解けないから、もっと多角的に考察しなければ分からないということで、違う角度からは立体がどういう平面に見えるかを分かろうとして、いつもいつまでも僕は考えている。

その痕跡が僕の網羅的で詳細な哲学的議論になるわけだけど、僕が言葉を敷き詰めて考えた結果は、統合失調症の陰性症状である心の平板化を反映しているものだ。
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