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2016年09月26日09:51

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大絶賛と全否定は、鑑賞眼のロス。

さらば、真田昌幸…“父上”の最期に感謝&昌幸ロスの声が続々
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=4210159
神回だの、神演技だの、大絶賛ばかり、かと思うと、少数の全否定、その多くが、長澤まさみが現代語なのはおかしい、とか大河ドラマらしくない、とか史実とちがうという旧弊な低レベルなもの。

メディアには、ドラマのまともな批評もなく、草刈正雄の大絶賛ばかり。真田丸を大河史上の最高傑作とまでいいきる(それはあまりにも過大評価!)人までいて、私のところにもそういう自称プロ(これはかなりアヤシい、なにしろ文章にプロらしさが全くない)の人からクレームまできた。

批評というのは悪口とはちがうのだ。どこが長所でどこが短所か、大河ドラマ史のなかで、あるいは三谷幸喜の作品のなかで、どのような位置を占め、その特性、リアリティとアクチュアリティにおいて成功しているのかどうか、を考えることが映画やドラマを見る楽しみのはずだ。

それが大絶賛と全否定しかないのなら、思考停止だ、なにも見ていないことに等しい。

草刈正雄の演技は、本人も自覚があるようだが、口調も雰囲気も丹波哲郎に似てきた(笑)、かれの俳優としての喜劇の才能は、Eテレの『美の壷』を見ていればわかる。確かに頑張ってはいたが、これくらいはできる俳優なんである。大絶賛は逆にいえば、それだけ草刈正雄という俳優にいままで興味がなかったからではないのか?

前半からなんとこの中盤の終わりまで、草刈正雄オンステージであった。いよいよラスト三ヶ月で、信繁=幸村はやっと主人公として生きるわけだ。

ここまで三谷幸喜が昌幸に入れあげて(?)しまったのは、三谷にとって理想の父親像を描こうとしたからではないか?と映画『ギャラクシー街道』を見た私は考える。この大河直前に撮影した『ギャラクシー街道』は、コメディではなく、三谷幸喜の恋愛観と結婚観のバカ正直な告白であり、女性への劣等感のカミングアウトでもあった。

その流れはこの真田丸にもあって、女優陣はみな箸休め、コントやお笑いを担当している。

私はロスを感じない。このあとのやっと活躍する主人公は、内村航平選手の鉄棒の演技のように高難易度のヒネリ技をやってきちんと着地で足を揃えられるかどうか?そこに私は関心をもっている。『新撰組!』ではそこでやっちまったのだから。


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