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2018年03月23日19:58

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無題


武田邦彦さんが「日本人は、宗教や道徳を持たず、大勢に流されて行動するから欧米の人たちは不気味に感じるし、信用もしない」と言うような話をしていた。
しかしこれは、ある種、誤解と言うものだろう。(現状を記述するという意味では正しいかもしれないが)

日本の思想を一言で言うと「誠(まこと)」と言うものである。確かに、そこには、イスラム教のコーランやモーセの十戒などに代表される「神との契約」と言う客観的側面は無い、しかし、むしろ主観主義を徹底するところに現れてくる「無私の天然自然の情」を最高の権威としているのである。

吉田松陰曰く
情の至極は理も亦至極せる者なり
情の至る所、理も亦至る。(『講孟余話』)

また、浄土真宗の開祖親鸞も「至誠心」について説いている。至誠心を自力で得るのは人間には無理であると、即ち、阿弥陀仏の他力の力によって初めて、至誠心が人間の中に備わるというのである。

ここに至ると、もはやキリスト教の倫理とほぼ変らない。キリスト者にとって人は神の代理人たるイエスキリストを信じることによってのみ救いの可能性に預かりえる訳である。

武田さんは「日本人は教養を得ると狡(ずる)くなる。水戸黄門の悪代官になってしまうんだよね」と言うが、これは、天下りを繰り返す東京大学を卒業したエリート官僚なども念頭にあるかもしれないが、それもこれも「誠の倫理」の欠落にある。江戸期の儒学者伊藤仁斎は「理」を説く陽明学の思想を批判して、「理によって決断すれば残忍酷薄の心勝ちて寛裕仁厚の心少なし」と述べている。
一方で、明治維新を実現した幕末の志士たちの最高規範は「誠」であった。

欧米のプロテスタントの合理主義が「隣人愛の実践」に向けられたように、幕末下級武士の合理主義は「誠」の理念に追従するものであった。

さらにいうと、神の代理人(天照大御神の子孫)である明治天皇の誓文の理想を達成することが、日本人の正義であった。

これが、日本人が短期間で近代化を成し遂げ、世界の五大国にまで成長した奇跡の根本原因である。

このエートスは、無意識の次元では、当然、戦後の日本人にも受け継がれている。とは言え、国家神道は政治権力によって解体されたのであり、そのエネルギーが完全な形で社会化しているとはいいがたいものがある。

戦後の日本人の至誠心は、国家全体に向けられたのではなく、所属する組織(会社や官庁)に向けられた。
それゆえに、企業は巨大なエネルギーを持ち、日本型資本主義はある面では大成功したのであるが、一方で、「身内を守るための組織犯罪」と言うのも増えてきた訳である。

御承知のように、幕末の維新の志士は、「脱藩」し、君国の為に行動したのである。これは「藩だけが宇宙」「自分が所属している組織だけが繁栄すればいいんだ」と言う考え方がひっくり返っている訳である。

という訳で、日本の思想をもう一度振り返って見ることが大事だと思う。

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