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2018年05月22日08:59

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丸山真男の話からまるでなぞるように成長していない

■反則の日大選手、声を上げて泣いた 記者が見たあの試合
(朝日新聞デジタル - 05月22日 06:44)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5120881


ヤクザと一緒なら、指でも内田前監督に送るか?って思ったんですが、まあそれはそれとして。
養老孟司は、よくヤクザが来たら献体の薬指を机においた、って語り草があるけどなあ。
そこら辺のメンタルこじらせたやつなら、泣いてりゃ同情が買えるなんて打算してるだろうけどな。まさか、打算でベンチに戻って泣いてた訳じゃあ、ないよねえ。
今からでも遅くない。
演劇同好会に入るのをオススメします。ケジメくらいつけろよ。

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2011年9月13日の『神戸新聞』の「随想」を思い出しました。

「強いられた政治的意見」は「自発的な政治的意見」より歯止めを失って暴走する傾向が強いことを案じているのである。
歴史を振り返るとわかるが、「強制された政治的意見」を人々は状況が変わるといとも簡単に捨て去る。
後になって「ほんとうは反対だったのだが、あのときは反対できる空気ではなかった」という言い訳が通ると思えば、人はどれほど過激な政策にも同調する。
あからさまな強制は、それに屈服した人たちに「説得力のある言い訳」を用意してくれる。その「安心」が人を蝕む。

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日大アメフトってのは、どうも丸山真男から一歩たりともなぞるように進化していないのだが、朝日新聞はそれを支えるようになぞりたいのだろうか?

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「右のような事例を通じて結論されることは、ここで『現実』というものは常に作り出されつつあるもの或(あるい)は作り出され行くものと考えられないで、作り出されて『しまったと』、いな、さらにはっきりいえば『どこからか起こって来たもの』と考えられていることである。『現実的』に行動するということは、だから、過去への繋縛(けいばく)のなかに生きているということになる。」(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」『現代政治の思想と行動』(未來社、1964)P109)) 

確かに、付和雷同型の体質が集団の合意形成を早めた上で、それが焦眉の危機的状況への対処を可能とした事例はあります。たとえば関ヶ原の戦いです。 

関ヶ原の戦いに於いては、東西両軍の軍事力はほとんど拮抗していました。だからこそ、西国大名達の大半は「様子見」をしました。たとえば、小早川秀秋は、午前中には西軍が優勢であったら動かずに、東軍が僅(わず)かに優勢に転じたら、徳川(東軍)側に寝返りました。 

脇坂甚内ら、周辺の西国大名らは、小早川の動向を見た上で、空気の変化を感じ取った上で、一斉に東軍に奔(はし)り、西軍の石田三成は敗北を喫しました。小早川は、石田と徳川から戦勝後の報奨を約束されており、様子を見てから勝ちそうな方についたのです。

この手のコウモリは既成事実しか見ません。状況を己の発意に依って変えることを彼らはしません。既に起きてしまって、趨勢(すうせい)が決したことに合意します。彼らにとっての「現実」には、「これから起きること」は含まれません。「既に起きたこと」だけが現実であり、確かに丸山が述べる通り、常に「過去への繋縛(けいばく)の中に生きている」のです。

「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(丸山眞男著、杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010.04)所収)

ところで、丸山の云う「ずるずる」とは何か?
ある決定の初発の意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす功罪のすべてについて固有名において責任を取る人間がいない。
既成事実の前に無限に屈服してゆき、個人としての責任の引き受けはこれを拒否する。

キーナン検察官の最終論告に曰く。

「二十五名の被告の全ての者から我々はひとつの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼等の中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。(・・・)彼等は他に択ぶべき途は開かれていなかったと、平然と主張致します。」」(丸山眞男著、杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010.04)所収)

これと同じことだろう。

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懐かしい話だが、1999年7月、朝日新聞では、ユーゴスラビア内戦の件で大江健三郎とスーザン・ソンダクが往復書簡を続けていたことがある。ソンダクはこんな話をしていた。

「かつてユーゴスラビアだった地を、スロボダン・ミロシェビッチが破壊し続けるのを食い止めるには、軍事介入しかないと考えたからです。ミロシェビッチが1991年に戦争を始めたそのとき、もし軍事介入が行われていたら、多くの、実に数多くの生命が失われずにすんだことでしょう。あの地域全体の物理的、経済的、文化的な破壊も阻止できたでしょう。(・・・)かりにNATOが戦争を否定していたとしたら、それはコソボの人々にとて、どういう事態を意味していたでしょう−助けは来ない、ということです」

これを思い出すのは、川崎事件のときだろうか。

「自分こそ最初の、最大の被害者である」、暴力の培地は悪意ではなく、おのれは無垢であるという信憑により、破滅的な暴力を引き起こす。

弁護士先生のコメントを挙げていればその兆候ははっきりと見える。被害者意識を先取りしたくてしかたがない、まさに暴力の培地そのものだった。

弁護人「当初、A君は被害者を痛めつけるつもりでした。(川崎)事件の1カ月前、A君はX兄弟やYら地元不良グループからしつこくつきまとわれて、多くの恐怖やストレスを抱えていました。過去に一度、A君は中学校時代に同様の経験をしたことがあります。自分がしてしまったことが何倍にもなって返ってくる、と自分の身を脅かされたのです」 

弁護人「事件直前にA君の家に乗り込まれることがありました。X兄弟やYが家に押しかけました。当時、A君は賽銭(さいせん)盗をしていて、そのことに関して日吉事件を口実に乗り込んできたのです。自分がまいた火種が何倍にもなって返ってくる辛い体験と、身に危機が迫る日々を思い出すことになりました。A君は被害者が話したからだと感じ、A君に強い怒りを感じるようになりました」 

弁護人「A君は暴力以外にトラブルの解決手段を知りませんでした。当時、日常的にタイマン、一対一の決闘を持ちかけられ、家庭でも言うことを聞かないと親に手を出されたことが何度もありました。最終的に暴力で解決するという環境で育ってきました。暴力以外で困難を解決する能力が身につかず、言うことを聞かなければ殴ればいいという環境にいたのです」 

「またA君は人に対する共感性も持てていませんでした。成育環境にあって、健康な自己愛がなく『どうせ自分は理解されない』『安心感が持てない』という状況でした。犯行当日、被害者と合流した際、なぜチクった(告げ口した)のかを問い詰めると、被害者はチクったことを認めなかったので、やはり痛めつけるしかないという結論に至りました」

 「では、なぜ切りつけ行為を死ぬまでやったのか。A君自身、培われていなかった能力、すなわち、被害者への共感性が培われてこなかったのです」 

そして、このコメントは、まさにソンタグの死化粧を感じさせる。

 「そこで、B、Cにも代わってくれと頼みました。『自分の代わりにやってほしい』という思いとともに『止めてくれないかな』という気持ちがありました。泳がせるのも、B、Cのどちらかからの提案を受けて行ったことです」 

 「3人で交代で切りつけたり泳がせる中で、A君はどうすればいいかわからなくなった。切りつける行為を進めるのをやめてしまうと、X兄弟やYから報復もある。続けるのも、ここでやめるのも怖い。混とんとした中、行為を継続し、殺害するに至ってしまいます。逡巡やためらいの結果ということです」 

すべては「主体」の意思と決断の次元で語られる。
だが、「主体」たちは、自分が「邪悪な主体である」可能性を吟味しない。

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もしくは、ベンチに戻ったときに日大の選手がどいつもこいつも なにやってんだ、と言わない辺り、「みんながやったことだから」と責任を希釈しているのか?とも思ってますがねえ。
誰とは言わないけど、何が問題が起きると、みんながやったことだから、っていうのが好きでしょ?

「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(オルテガ・イ・ガセー『大衆の反逆』)

世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族誌的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間は、めったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがなんとなくわかってきますが、どこぞのええかっこしいみたいなでしゃばりみたいな、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。みんなのせい、とかな。

そいつの頭にいる「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうる。

「みんな」ということばの使い方がひとりひとり「みんな」違っており、それゆえ、「みんな」の範囲が狭い人間であればあるほど、おのれの「正義」とおのれの判断の適法性をより強く確信することができる。

無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる。

その場にいた全員でやった以上、「みんな」がやったことだから、咎められるはずはないという大衆社会固有の推論に基づいての判断だ、という犯意の否認の仕方がある。
狭い社会の外側に「刑法」という上位規定によって規制されている社会が拡がっていることを(知識としては知っていても)、実感したことがないためにそのような否認が出来るのだが、それはまたそれ。


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