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2018年01月18日22:24

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稲垣教授の華麗なる逆説 ―― 稲垣良典『現代カトリシズムの思想』批判

本書は1971年初刊で、長年の品切れを経て、このたび待望の増刷(第6刷)を果たした。

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では、なぜ今、増刷なのか?
まずはその点について、一つの推理を披露しよう。

私の推理では、第2バチカン公会議(1962年〜1965年)で示された清新なるリベラル路線への反動として、以降じわじわと進められてきた(国内外における)カトリック保守派による反動が、現法王フランシスコの登場によってにわかに巻き返され、再びリベラルな方向へと進行中というのが「現在の時勢」だからである。
つまり本書は、カトリック保守派の論客として既に定評のある稲垣良典氏の著作としては、最もリベラルで、フランシスコの今(の時流)に最もマッチした著作なのだ。

カトリック教会(ローマ教会)の歴史をひもとけば、面白いくらいにリベラルと保守の交代劇が繰り返されている。つまり、カトリックは、ずっと保守的だったわけでもなければ、リベラルであったわけでもない。ただ、古い時代には国家権力と結びついていたので、保守派の時期の方が圧倒的に長かったということなのだ。

カトリック教会の特徴は、教会絶対主義でありローマ教皇(法王)絶対主義だ(このあたりが、プロテスタントはもとより、東方教会からも批判されている)。法王が教会に諮りつつも決定したことについては、これを聖霊によって導かれた「神の意志」と理解承認しなければならない(教皇無謬説)。したがって、その教導に逆らうことは「異端」の行ないであり「破門」の対象であった。
古い時代では、「破門」されると、その者は国家権力に引き渡されて「世俗権力の手」によって処刑(火刑)に処されたりしたのである(つまり、教会は「手を汚さない」)。

そんな絶対的な教導権を持つ教会の下におかれた、カトリックの神学者を中心とした「理論家」たちは、当然のことながら、その時々の「教会の方針」には絶対服従であり、それまでの自論を180度転換するようなことも、恥ではなく、むしろ当然のこととして行ってきた(そうしなかった人は、異端の烙印を押され、排除された)。

このあたりは、現代の無信仰者には、なかなか理解しにくいところであろう。
仮にも、神の真理を論ずる理論家が、上の方針が変わったからといって、自身のそれまでの主張をコロコロ変えるような、そんな恥知らずなことができるのかという、当然の疑問である。

だが、それは歴史的事実として出来たのであるし、なにより他でもない、本書の著者である稲垣良典氏も、そのような理論家の一人なのである。


私より先に本書のレビューを書いた「勤労読書人」氏は、本書について、こう書いている。

『第二バチカン公会議の「エキュメニズム(教会一致運動)」の熱気冷めやらぬ時期に書かれたからかも知れないが、稲垣氏が現時点で同じタイトルで本を書くとすればどういう切口になるか知りたいところではある。』

『後半ではマルクシズムとの対話への期待や社会変革へのキリスト教の役割が熱く語られているが、本書を改訂するとすれば、この部分はおそらく大幅に書き改められるのではないだろうか。名著でありながら絶版となっているのはこの辺りが理由かも知れない。』

そうなのだ。本書が書かれたのは、第2バチカン公会議の興奮が冷めやらぬ時期であり、カトリック教会は、公会議の決定に従って、「エキュメニズム(教会一致運動)」を含む、リベラル化が進められている時期であった。
この頃、公会議の決定に不満を持っていた保守派は、黙りを決め込んで巻き返しの時期をうかがっていたか、あるいは表面上は公会議の方に従って、リベラル化を歓迎するかのような態度を採ってみせていたのである。

また、この1971年当時と言えば、ソ連がアメリカと並ぶ二大強国として君臨し、共産主義や社会主義を奉ずる国家がまだまだ力を持っており、マルキシズムの理想が色褪せてはいない時期だった。

だからこそ、「勤労読書人」氏も指摘しているとおり、本書の著者である稲垣氏も、それまでは「無神論思想」としてカトリック教会が敵視してきた「マルクス思想」との対話を、本書では強く訴えていた。
稲垣氏は「あとがき」の冒頭で、こう断じている。

『 われわれがこんにち自らの思想を形成してゆくにあたって、対話の相手としてカトリシズムを無視することはできないのではないだろうか。本書の全体はつまるところこの問いかけであり、この問いかけを説得的なものにしようとする試みである。ルフェーブルは「こんにち主要な世界観は三つしかない」といい、「個人主義が死滅したあとに残って面と向きあっているのはカトリシズムとマルクス主義である」といいきっている。もし、この言明になんらかの真実がふくまれているとしたら、それはマルクス主義とカトリシズムの対話が緊急に必要だ、ということであろう。わたくしがいいたいのは、マルクス主義者はカトリシズムとの対話を通じて、カトリック思想家はマルクス主義との対話を通じて、それぞれ自らの思想を厳密なものにし、また豊かにしてゆく必要があるのではないか、ということである。「鉄は鉄によって鋭くされる」(箴言、27・17)』(P207)

このように、本書における稲垣良典氏は、第2バチカン公会議の方針に忠実な、じつにリベラルなカトリック思想の持ち主であるかのような主張をしている。
しかし、やがて時間は、稲垣氏からこの「時流迎合の仮面」を削ぎ落としてしまう。

なぜ、「勤労読書人」氏は『(※ 稲垣良典氏が)本書を改訂するとすれば、この(※ マルクス主義との対話の必要性を強く訴えた)部分はおそらく大幅に書き改められるのではないだろうか。名著でありながら絶版となっているのはこの辺りが理由かも知れない。』と書いたのか。
それは「勤労読書人」氏が本書のレビューを書いた2015年当時、つまり本書初版刊行から四十数年後の段階においては、稲垣良典氏は、四十数年前の主張とは真逆に等しい「カトリック保守派」に変貌していたのを知っていたからに他ならない。

私は、稲垣氏が一昨年(2016年)刊行した『カトリック入門 ―― 日本文化からのアプローチ』(ちくま新書)のAmazonレビューを「稲垣良典批判 ―― カトリック保守派の最悪の部分」と題して書いた。(https://www.amazon.co.jp/gp/aw/review/B000J9BKN8/R2KHSW7AFNVSJP
つまり、2016年の段階、大雑把に言って「現在の稲垣良典」氏は、リベラルのリの字も無い、典型的な「カトリック保守派」であり、その中でも「最悪」に凝り固まった保守派だと私は断じ、このレビューで、それを論証してみせた。

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言い変えれば、稲垣氏は、1971年当時には、当時の「時流」に乗った「リベラル風」の理論家であり、その四十数年後の現在では、現在の「時流」に乗った「保守派」論客である、という判断は、現在の稲垣氏を基本的に支持しているらしき「勤労読書人」氏も、現在の稲垣氏を批判している私も、ともに共有する認識だ、ということである。

上のコメントにも明らかなとおり、「勤労読書人」氏のレビューは「当時の情勢からすると、著者稲垣のリベラル的な立場も理解できなくはないが、できれば、現在の最終的な立場であるアンチ・リベラルの視点からの『現代カトリシズムの思想』を読んでみたい」という趣旨のものであり、稲垣氏の「真逆への変貌」を、「変節」や「転向」だとは捉えていないようだ。
それは、私が先にも書いたとおり『絶対的な教導権を持つ教会の下におかれたカトリックの神学者を中心とした「理論家」たちは、当然のことながら、その時々の「教会の方針」に絶対服従であり、それまでの自論を180度転換するようなことも、恥ではなく、むしろ当然のこととして行ってきた。』という「歴史的事実」としての「カトリック的特殊事情」を、よくご存知だからであろう。

しかし、私たち非カトリック信者、さらには非信仰者であり「非党派」者にとっては、稲垣良典氏が典型的に示したような「カトリック的変節の正当化」は、うさん臭くてとても受け入れられるものではない。
上司の方針変更に応じて、何の疑義を挟むことも抵抗もなく、その都度、言うことがコロコロ変わるような人の言うことを、真に受けるのはわけにはいかないのである。

また、そんな稲垣良典氏だからこそ、私は氏を単なる「保守派」とは呼ばず『保守派の最悪の部分』とまで呼んだのである。

「保守」か「リベラル」かは、その人の考え方に応じて誠実に選ばれた「思想的立場」であるべきだ。だからこそ、私は、どのような立場の人であろうと、その人が自身の思考に誠実であれば、その人の意見には反論しても、その人の立場自体は否定しない。場合によっては、尊重し尊敬すらするだろう。
しかし、どんな事情があろうと、結局は「時流」に乗って、態度や立場や理論をコロコロと変えてしまうような人では、彼がいくら立派な肩書きの持ち主であろうと、頭のいい学者や論客であろうと、尊敬することなど到底できない。
しかし、こんな当たり前の「倫理」が働かなくなっているのが、稲垣良典先生万歳の「カトリックの党派的保守派」なのである。


さて、ここまでは、本書の著者である稲垣良典氏が「なにゆえに信用できない人物なのか」について、書いてきたが、あとは簡単にその「信用してはならない華麗なレトリック」について書いておこう。

稲垣良典氏は「信用ならない語り手」である。しかし、その「論客」としての力量に限って言えば、その有能さは、私が保証してもいいくらいだ。まさに稲垣氏は「才人」なのである。

だからこそ、たいていの読者は、稲垣氏の「華麗なるレトリック」、「ブラウン神父の逆説」ならぬその「華麗なる逆説」によって、黒を白だと思い込まされてしまうだろう。
ましてや、読者が「保守的なカトリック信者」であるなら、『気鋭のトマス・アクィナス研究者である山本芳久氏』ではなくとも、稲垣良典氏は「頼もしい護教的論客」だと、その目に映るであろう。

昔、評論家の笠井潔が、柄谷行人との対談で、新左翼セクトのイデオローグ(党派理論家)であった若い頃のエピソードとして「当時、セクトの仲間に、理屈ならどうとでもつくと言ったら、非難された」という趣旨のことを、軽口として語っていた。

実際、そうなのだろう。優れた論客とは「白を黒とでも言い包めてしまうくらいの力量を持った人」のことを言う。
もちろん「白を黒と言い包める」のは「欺瞞」行為であり、それは「倫理」的には批判されて然るべきことである。
しかし、党派理論家というものは、一般的な倫理よりもむしろ、その党派の利益を優先し、自党派の正しさを説得的に語る事こそがその使命なのだから、笠井が仲間内でこう語ったのは、実際のところは「正直な本音」にすぎなかったのだと言えよう。

そして「党派理論家=イデオローグ」であるという点では、本書の著者である稲垣良典氏も、何ら変わりはしない。

本書の「あとがき」に『われわれがこんにち自らの思想を形成してゆくにあたって、対話の相手としてカトリシズムを無視することはできないのではないか。本書の全体はつまるところこの問いかけであり、この問いかけを説得的なものにしようとする試みである。』と書いていたとおり、稲垣氏が本書で行っていたのは「カトリック思想に、現代的な存在価値があるか否かの、客観的な検証」などではなく「カトリック思想には現代的な価値があるという結論を、説得的に語る」という「党派理論家」としての仕事だったのである。

だから、本書において稲垣氏が、第2バチカン公会議の決定に準じて、一見「リベラル」な意見を支持しているように見えても、それはカトリックの中では最もリベラルだった(第2バチカン公会議の中心的)理論家、例えばカール・ラーナーなどの見解を、要領よく祖述していたにすぎない。
稲垣良典氏は、1971年当時、カトリック界の理論的ヒーローだったリベラルな理論家の理論を、あたかも自身が全面的に支持するものであるかのごとく本書では語っていたのだが、やがてカトリック保守派の巻き返しが始まり、リベラルな理論家が力を失っていくにしたがい、稲垣氏はリベラルな理論や理論家を歯牙にもかけない「保守派としての素顔」を徐々に表していったのである。

だから、前にも書いたとおり、2016年に刊行された稲垣氏の著作『カトリック入門』には、本書『現代カトリシズムの思想』で大きく採り上げられていた、ラーナーなどのリベラル派理論家は完全に姿を消して、後に残ったのはマリタンなどの保守派理論家だけであり、そこへ岩下壮一やチェスタトン、ベネディクトゥス16世(ヨーゼフ・ラッツィンガー)などの保守派理論家が増補されることになる。

先に紹介した「勤労読書人」氏による『現代カトリックの思想』のレビューは、『カトリック入門』が刊行される前年の2015年のものであるけれども、当然のことながら、その頃すでに稲垣氏は「カトリック保守派」だと、日本のカトリック界では、そう認識されていたということだ。

そんな「理屈なら何とでもつけられる」有能な党派理論家である稲垣良典氏の「華麗なテクニック」は、本書においては、例えば「カトリック教会は、本質的に科学を否定したことはない」とか「科学は奇跡を否定できない(奇跡の正当化)」「カトリック教会は、信教の自由を否定したことはない」といったあたりの「正当化が極めて困難で、ために高度のテクニックを必要とする、黒を白だとすり替える詭弁」に典型的に見られるだろう。

野崎昭弘の『詭弁論理学』(中公新書)などを読むと、典型的な詭弁の原型的なところが切り出されて示されているから、なるほどこれが詭弁なのかとわかりやすいが、本書におけるそれを見抜くのは、決して容易なことではない。
というのも、本書は「詭弁」だけで出来ているわけではなく「9割の真実に1割の詭弁が練り込まれている」からである。だから、大半の議論はそれなりに納得できるものなのだが、結論のところでスラッと「だから、カトリック思想は、現代においても価値がある」と書かれた時に、ついレトリックの流れに乗って納得させられてしまうのだ。

しかし、これでもまだ説明が抽象的だということであれば、すこし具体例を示しておこう。

本書において、非常に特徴的な稲垣良典氏の言い回しは『裏から言えば(裏から言うと)』である。
これ自体は、詭弁テクニックそのものではないけれども、この言葉は、当時の稲垣氏の「思考回路の特徴」をよく示しているといえるだろう。

その上で、詭弁的言い回しの具体例として、例えば、カトリック的「禁欲」を擁護した部分での『われわれは禁欲についてもっと深く理解する必要がある。』とか『しかし、禁欲の真意は』(ともにP84)といったものであったり、

『 まず、さきにもふれた点であるが、キリスト教が自然の探求および支配としての自然科学や技術を可能たらしめた、という面を見落としてはならない。神の絶対的な超越性を説くキリスト教はこの自然世界にたいする人間のかかわり方にとって強力な解放力があったにちがいない。キリスト教は自然世界を非神格化もしくは世俗化して、人間の支配にゆだねたのである。いうまでもなく神による世界支配が否定されたのではない。しかし、第一原因たる神の超越性があきらかにされた結果として、第一原因に訴えることなしに自然世界をそれ自体において理解する道が開かれた。いいかえると、根本的に
は神中心的でありながら、人間中心的な視点が確立されたのである。逆説的ないい方かもしれないが、神の超越性があきらかに示されたことによって、自然研究における内在的立場に徹することが可能になった、ともいえるであろう。』(P172〜173)

お分かりだろうか?
「という側面を見落としてはならない」「があったにちがいない。」「である。」「いうまでもなく」「いいかえると」「逆説的ないい方かもしれないが」「ともいえるであろう。」?? こうした言葉は、議論の論理的階層レベル(ロジカル・タイピング)をズラすものなのだ。

「人間は人間であって、猿ではない」という科学的(客観的)事実に対して、例えばこのように反論するのと同じだ。

曰く「いや、ある意味では、人間は猿であるし、猿であるという側面を見落としては、人間の意味自体を理解し損なう。われわれはもっと、人間の猿性について深く理解する必要があるし、人間が猿であるという言明の真意を理解しなければならない。人間が人間であるという言明は、傲慢な決めつけでしかなく、哲学として浅いのである。」云々。


なぜ、私はここまで稲垣良典氏に対して厳しいのだろうか? 呵責が無いのであろうか?

それはたぶん、私がラーナーが言うところの『知られざるキリスト者』『暗黙のキリスト者』(P64,74)だからであろう。
そして私にとっては、稲垣良典氏が、マリタンの言う『実践的無神論』者だからであろう。
『実践的無神論』者とは『自分では神を信じていると思いこんでいるが、じっさいにはその行為ならびにその生活の証言を通じて神を否定しているような立場』(P62)に立っている者を言う。
つまり稲垣氏は、これらの著作によって、私に「だからキリスト教は、偽善的で信用ならない」と思わせてしまい、私を神から遠ざけているている人物(の一人)なのである。

稲垣良典氏は本書の中で、こう書いている。

『 時として信ずることはそのまま安息、確実性、慰めであり、不安や疑惑をまったく排除するかのように考えられているが、現代のカトリック思想家は(中略)信仰はこのような不確実さや動揺を排除するものではなく、じつはそれとたえず対決し、それらにうち勝っていくことにおいて信仰は成立する(※ と説いている)。(中略)裏からいえば、疑惑や不信を見過ごしてしまった信仰は、信仰というよりは空虚で安易な自己満足にすぎないのではなかろうか。』(P70〜71)

まったく同感である。
当然、稲垣良典氏の信仰が本物であるならば、稲垣氏自身、不安や疑惑や不信と、この当時も、そして今も、闘っているはずである。
だから、それが正直に表明された上で「それでも私が間違っているのであろう。私は神を信じて、この迷いの中を進んでいきたい」と書くような人であれば、その信仰者としての、そして何よりも「人間」としての「誠実さ」を、私はそこに見て、氏を信じたであろう。

しかし、稲垣良典氏の著作である本書や『カトリック入門』に私が見たのは、一抹の迷いもないかのように「確信ありげにカトリック教会の完全性を弁証」しようとする「華麗なる詭弁家」の姿でしかなかったのである。

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