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2017年12月20日19:19

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SEKAI NO OWARI「RPG」に対する疑義

人気バンド SEKAI NO OWARIのメンバー、藤崎彩織の初小説『ふたご』が、第158回 直木賞の候補作に選ばれ、話題になっている。
本好きの興味は、彼女が受賞して「第二の又吉直樹(芥川賞受賞)」となり、文芸出版の延命カンフル剤になり得るかどうかといったことだろうが、まあそれはどうでもいい。

だが、そんな話題が出たこの機会に、前々から気になっていた、SEKAI NO OWARIの楽曲「RPG」への疑問について書いておきたいと思う。

劇場用アニメ『映画クレヨンしんちゃん バカうまっ! B級グルメサバイバル!!』の主題歌で、アニソンの世界ではすでに名曲の地位を固めたと言っても過言ではない、SEKAI NO OWARIの「RPG」(https://m.youtube.com/watch?v=Mi9uNu35Gmk)だが、私はこの曲への違和感を禁じ得ない。

と言うのも、
SEKAI NO OWARIの初期作品、例えば「天使と悪魔」(作詞:深瀬慧)などは、そのバンド名(初期は「世界の終わり」と表記)からもわかるとおり、世界に対する違和感を表明するものなのではあるが、その中味と言えば、自身の立ち位置を曖昧にしたまま、あっちにもこっちにも、ありきたりな注文をつけるだけで、まるで当人だけは世界とは無縁に無垢だと言わんばかりの、被害者意識と妙な優越感が鼻につく曲であったからだ。

後で知ったことだが、ボーカルで作詞も担当する深瀬慧は、精神病や発達障害ADHDがあったそうで、私はその話を聞いて「そういう人なら、ああいう悲観的で自己中ぎみな世界観であっても仕方ないな」と思っていた。

ところがその後、私の守備範囲であるアニソンとしてヒットした「RPG」は、その歌詞が、初期作品のそれとは真逆と言っていいくらい、肯定的と言うか、むしろ無責任なくらいに楽天的なものだったため、私には、とうてい本気で自分の考えを詩にしたものとは思えず、そのタイトルのとおり「所詮は、ゲーム世界のお伽話だ」という冷笑に近いものすら感じさせられたのである。


『(略)
「世間」という悪魔に惑わされないで
自分だけが決めた「答」を思い出して

空は青く澄み渡り 海を目指して歩く
怖いものなんてない 僕らはもう一人じゃない
空は青く澄み渡り 海を目指して歩く
怖くても大丈夫 僕らはもう一人じゃない

“煌めき”のような人生の中で
君に出逢えて僕は本当によかった

街を抜け海に出たら 次はどこを目指そうか
僕らはまた出かけよう 愛しいこの地球を(以下略)』


もちろん、この楽曲は『クレヨンしんちゃん』という、子供向けアニメとして、極めて肯定的で楽天的な作品のために書かれたものだから、初期作品のような否定的世界観による歌詞にはできなかったという事情はあるだろう。
しかし、仮にも「アーチスト」だ「表現者」だと名乗るのであれば、無節操にどんなものでも注文に応じて書く、書けるというのは、資本主義に毒された、一種のニヒリズムでしかないと、指弾されねばなるまい。

そうした観点からすれば、あの「世界の終わり」が、こんなに安直に肯定的な歌詞を書くことに、抵抗は無かったのか、後ろめたさを感じなかったのか、と問いただしたくもなるのである。

例えば、この歌詞の『「世間」という悪魔に惑わされないで/自分だけが決めた「答」を思い出して』といった部分には、明らかに「世界の終わり」らしさが残存している。
「悪いのは世間や世界の方であって、自分たちは無垢な被害者である」といった、かなりナルシスティックでもあれば独善的でもある、独特の感じ方がそれだ。

私は「世界の終わり」のこういう部分が嫌いだったので「作詞︰Saori|Fukase」となっているこの楽曲において、藤崎彩織の世界観の関与が少なくないとしても、やはり「世界の終わり=SEKAI NO OWARI」が、本質的には変わってはいないと見ている。
だからこそ、否定的な世界観から肯定的な世界観へ変わってきたのなら変わってきたで、その間に「誠実な葛藤」があって然るべきだし、表現者ならばそれが、適切に表現されて然るべきだと考える。

にもかかわらず、「RPG」の歌詞は、開き直ったとも、手のひらを返したとも形容したくなるような安直さで、世界を肯定的に語ってしまっているので、私はこの楽曲に「偽善」に近いものを感じるのだ。

ただし、この楽曲が、単に肯定的世界観によって書かれたものではないというのは、同曲のオリジナルプロモーションビデオを見れば、かなりハッキリする。

例えば、暗闇の中に立つメンバーのシャツに映し出される「PEACE」のロゴが、次の瞬間血の滴っているような崩れたロゴに変化したり、同じくシャツに横方向へ流れるかたちで映し出される「セイギ セイギ」の文字が「ギセイ ギセイ」に変わったり、落ちてくるミサイルのイラストが映し出されたりと、世間で語られる「平和」や「正義」を揶揄して、それらへの不信感を、ここでは明らかに表明している。

フォト

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しかし、それなら彼ら自身の語る「信ずるに値する君自身」だとか「煌めきのような人生」だの「この愛しい地球」なんてありきたりな言葉が、どうして信用に値するものだと言うのだろうか?

だが、このプロモーションビデオで、さらに注目すべき点は、メンバーによるダンスシーンで、一瞬、メンバーの顔が「仮面」に変わっているという事実だ。
これは何を意味しているのか?

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普通に考えれば、これは「僕たちも仮面を被ってこの歌を歌っているんだから、こんな歌の歌詞を真に受けちゃいけないよ。世間って欺瞞に満ちているんだから」と警告している、いうことになるだろう。
つまり、彼ら自身がすでに「世間という悪魔」なのだ。

もしかすると、これは彼らが世間並みの商業主義に取り込まれていく自分たちに、自責の念のようなものを感じて、わざわざこのようなことをしたのかも知れない。
だが、それは所詮、卑怯なダブルスタンダードであり、非難回避のためのアリバイ工作でしかない。

本気で、この世界を素晴らしいと思えるようになったのであれば、それが勘違いであろうと、チープな幻想であろうとかまわない。彼らが自身の実感に正直な表現をしているかぎり、それはいくら拙かろうとも、ペテンではない。

しかし、自分が信じてもいない「綺麗事」で若い視聴者やファンを欺き、それでいて「この綺麗事、実は本気じゃないんだよ」などというアリバイ工作を、プロモーションビデオに紛れてこませていたのだとしたら、それは視聴者やファンに対する、許されざる裏切りなのだ。

ただ、私が引っ掛かりを覚えるのは、何も彼らだけではない。
この嘘っぽいとも偽善的言い得る歌詞を、そのまま素直に受け取っているらしい、多くの視聴者やファンの感性も、いかがなものかと思うのだ。
この曲を聴き、このプロモーションビデオを見ても、まだ「前向きで感動的な良い曲だなあ」などと思えるものなのか?
そうだとしたら、その視聴者は、あまりにも絶望的に鈍感な、救い難い鑑賞者だと言えるだろう。
つまり、歌手も歌手ならファンもファンだということだ。

もちろん、私はSEKAI NO OWARIのファンではないから、その楽曲のすべてを分析したわけでもなければ、聞いたわけですらない。彼らの自伝的著作も読んでいない。
だから、誤解はあるかもしれないが、しかし、ぜんぶ知っていなければ、作品を論じられないということはない。
作品は個々に独立したものであり、その作品を個々のものとして、ありきたりなら「ありきたりだ」と評価していいし、疑義があればそれを表明しもする。

だから、拙論の解釈や主張が、事実に即して誤りであるのならば、その事実を根拠を示して正して欲しいと、私は心から思う。誤ちを改むるにしくはないつもりである。

しかし、作品が事実このようなものである以上、私を納得させるだけの根拠を提示することは、そう容易なことではないと思うのだが、いかがだろうか?
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