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2016年07月30日18:05

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久野収の戦争論

【某所で私が記述したコメントの再掲】


戦争とは人間本性とどう関係するのだろうか?この問いに対する久野収の言説は興味深い。
久野は、戦争と人間本性との類比における二つの立場を説明する。

1:戦争とは人間本性の表現形である。
2:戦争とは人間本性の反射である。


1:人間本性に内在する闘争性から直接的に戦争行為を演繹することが可能である。即ち、人間本性は戦争行為の可能性を自ずから胚胎する。

2:人間本性に内在する闘争性から戦争行為は直接的に演繹できない。人間本性は、特定の因子の集合の媒介を受容する過程において戦争を現前化させる。

久野の立場は2である。彼は人間本性からただちに戦争行為を導き出すことは不可能であると考えている。


こうした久野の思考に対して私の見解を述べる。

国家間の宣戦布告による武力衝突を意味するのが戦争だが、久野の論理は、紛争にも応用可能である。

人間の原初状態を想定した場合、そこに闘争や係争があろうとも、戦争や紛争は、有り得ないだろう。

また、旧石器時代には戦争や紛争が、ほとんど確認されていないということもある。

これらのことから、人間本性は直ちに戦争を現前化するものではないと言うことが出来る。

戦争や紛争は、それを前提とする政治システムや、社会組織、政治的状況、文化的志向性、ヒエラルキー等、或る因子の集合や連結を必要とする。

だが久野が、戦争行為を人間本性と無関係であると認識しなかったことも重要だ。帰結主義的に言えば、人間本性は戦争行為の温床となるに十分な性質を具備していると言い得る。

無理に帰結主義的な変換に頼る必要は無いが、穏当に言えば、人間本性は、特定の因子の集合の媒介を通過することによって戦争や紛争を現出させると言うことが出来る。


具体的に考えてみると次のような応用例が考えられる。

a:ポリス的動物である人間は、社会組織内に共有されるドグマや社会的集合意識を、自己に向かって内部化することが可能である。それは、社会の共有する教条やムードによって個人が支配されやすいという構図でもある。社会の教条やムードが戦争や紛争を自己目的化する時、人間個人は、これらに支配されやすい性質を具有している。

b:人間は集団の利益を、自己の意識と同一化することが可能である。そのため、集団の利益を最大化することを目的とする観点から、戦争や紛争を許容できるのである。勿論、そこには武力を有する主権的組織間の係争状態という前提が必要になるが。

ポリス的な動物であることは、人間本性に適するものだと考えられるが、人間のポリス的意識から直接的に戦争や紛争を導くことは出来ないのだ。つまり、ポリス的動物である人間は、ポリス的な意識の外延化として戦争や紛争を導く。その外延化の中で、特定の社会的条件が発生し、結果的に、戦争や紛争に結びつく場合もあるのだ。

こうした考察から言っても久野の言説は、十分な説得性を有している。

確かに、全ての個人が、社会組織に対する自己意識の投影や、ドグマ、社会的ムーブメントなどからの支配によって戦争や紛争を導出する訳ではない。だが、何れにしても、戦争や紛争は、人間本性の反射によって現出すると考えられる。
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