mixiユーザー(id:64413619)

2018年04月15日23:21

813 view

父の言葉

「731部隊」隊員らの実名開示
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5072114


このニュースが掲載されてすぐ89歳の老父に読んで聞かせました。
父は、昭和18年に自ら志願して14歳で特年兵として海軍に入隊してます。

父の父である祖父は、息子であった父が軍需工場に行く事が無いようにとお寺に弟子入りするように手続きをしていたそうです。親ならば、我が息子の事を思いそうした祖父の行動も正しかったと私は思います。

今の中学生の年齢である当時14歳の父は、佐藤紅緑の「あゝ玉杯に花うけて」を読んで、自分が進むべき道は兵隊だと思い、役場から書類もらって来て、父親の印鑑を勝手に押して親には内緒で書類を出し、試験に合格してから、両親に話して、ずいぶん怒られたそうですが、最後に祖父が、生きて帰って来い、とそれだけ言って出征の時は紋付羽織袴で見送りに来てくれたそうです。

海軍に入隊し、航空隊の通信隊の隊員として従事した父が今でも忘れないのは、マリアナ諸島から送られてきた電文で、「只今より総攻撃をかける、援軍を送れ」だそうです。

通信文ですから、本来なら暗号文で送られてくるのが、もう暗号ではなくそのままの平文と呼ばれる状態のまま送られてきて、どれほど、その状況が厳しいものかは手に取るほど分かったそうです。

父はその時苦しくて悲しくて空しくて、何とも言葉に出せない状況で応答が出来なかったそうです。ただただ涙を流していたら、上官から、軍人男子たるもの人前で泣くでない、前線で闘っている者たちの事を思えば内地におるものが泣いてはならぬ、応答せぬか、と言われたそうです、しかし、その上官も帽子を深くかぶって顔を隠してたけど、泣いてたそうです。

当時の日本軍には送れる援軍も無く、なす術一つ無い状況で、父は自分が現地で戦ってる人達を見捨ててしまったような気持になったそうです。なんでもない単なる蟻のような一兵である自分が電文を受けておきながら、上官に伝えるだけで、何もできない自分が腹立たしくもあり、悔しくもあり、情けなかったそうです。ただその時の救いは、上官が、電文をきちんと受け取った、それだけでよい。と言われた事だそうです。それでも大きな大事な物を置いてきてしまったような気持がしていたそうです。

その後、終戦になり帰郷し、地元の印刷屋で働いていた時、警察予備隊としての自衛隊の前身が出来た事を聞いて、戦争中の大きな大事な置いて来たものを取りに行かねばと、警察予備隊に志願して入隊したそうです。

戦争に出征する時は、父親に怒られて、今度、警察予備隊に入る時は、母親からせっかく助かった命をお前はなんと思っとるのか、と、ずいぶん叱られたそうです。

今の父に言わせれば、置いてきた大事な物は取り戻せてはいない、大した出世は出来なかったけど、自衛隊で働けた事は良かったと思う。ただ、14歳で入隊した一番年下の自分でも89歳、今回の部隊の人達は、防疫隊員だったからたぶん自分達より年上の人達だから、もう鬼籍に入った人が殆どだろうけど、その方々も生きてた間、現場で救えなかった多くの命を思いやって生きてたと思うし、また、森村誠一さんの小説が出た頃、きっと、違う、違うって心の中で叫びながら過ごされてたと思う。そうした人々も戦争被害者であることを忘れてはいけないと。

そんな実名が出たら悲しいねぇと言って今夜は寝ました。
50 7

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する