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2018年03月18日06:16

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時間の変化(7)

人間原理−砂浜物語
 砂浜を別々に歩いている5人がいる。それぞれ散歩しながら、砂浜に残る足跡と落ちている時計を見つけた。そして、それらについて5人5様に考えた。

A:足跡と時計を見て素直に驚いた。それらは一体何なのか。この素朴な問いはAの好奇心を呼び起こし、それらの存在と本性を明らかにしようと思った。
B:自分の時計を見て、落ちている一つは時計だとわかった。だから、時計には驚かなかったが、足跡には困惑した。時計は何の好奇心も引き起こさなかったが、自分の足跡と違う足跡にはAと同じように好奇心をもった。
C:Bと同じく、時計は知っていたので関心を示さなかった。さらに、Cはクマの足跡も何度も見て知っていた。この季節に海岸を歩くクマの習性も知っていたので、簡単に足跡がクマのものだとわかった。Cの心は穏やかで、何の驚きもなかった。
D:Aと同じように驚いたDは、時計や足跡に背後にある微妙な仕掛け、からくりを感じた。偶然にこのようなものが存在すること、偶然にここにあることに不思議さを覚えた。自分が見つけたこと、見つけた場所、状況が謎を解く鍵になるのではないかと考えた。
E:Dより形而上学が好きであるEは時計や足跡の背後にそれらをつくりだしたデザイナーがいると考えた。足跡は何かがつけた。時計は誰かがつくった。「何か」や「誰か」なくしてそれらが砂浜にあることはない。
F:Fは砂浜の足跡と時計を見つけたのは自分が海岸を散歩したからではないかと思った。そして、自分が海岸を歩かなければ、足跡や時計は発見されず、何事も起こらなかったと結論した。

 さて、上の物語からどのようなことが言えるだろうか。A、B、Cの反応は通常の人の常識的な反応で、科学者も同じような反応をするだろう。だが、砂浜に落ちているものについての科学の出発は3人では異なっている。認識上、観測上の選択効果のためである。3人は異なる科学をつくる可能性をもっている。Dは哲学のほうが向いているだろう。観測が科学的知識にどのように結びついているかを主観的に考えるだろう。Eは神学者になるかもしれない。ペイリーの後継者の資格を備えている。Fは独我論に苦しむかもしれない。好奇心に対する各人各様の態度の背後には次のような事柄がうごめいている。

見たものへの素朴な好奇心
見たものの間での神秘的一致
事実との照合確認
微調整の存在
デザイナーの存在
神の創造
完全運命論
独我論
(これらの項目の順序に従うと、私たちの好奇心は次第に満足され、最後には好奇心そのものが不必要になっていく。)
 このような異なる観測結果の解釈を下敷きにして、しばしば話題になる「宇宙原理(cosmological principle)」と「人間原理(anthropic principle)」の違いを考えてみよう。二つの原理はどのように異なるのか。理論と観測の違いに注目して考えてみよう。理論やモデルで成立することは宇宙原理、コペルニクス原理が成立するという仮定を暗黙のうちにもっている。一方、観測の方は人間原理と密接に結びついている。次の三つの性質を考えると、理論と観測の違いが浮き彫りになる。

対称性−物理理論、物理概念の特徴
因果性−経験世界の特徴
局所性−特に、観測の特徴
 
 モデルは多くの理想化をするが、その際に無限、公平性、対称性が使われる。この理想化は観測に関してはことごとく理不尽なものである。観測上の不可避的な制限は、

全部観測できない
ずっと観測できない
背後が観測できない

といったものである。これらは、

帰納法、確率
因果性、時制あるいは歴史
アブダクション、仮説設定

に結びついている。全部見られないことから、帰納法が完全には使えず、確率や統計によって部分的な観測結果だけで処理しなければならない。ずっと見られないことから、因果性の仮定を使って軌跡を描かなければならない。少なくとも、未来は見られないので、予測しなければならない。背後にあることは見えないので、仮説を設けて推測しなければならない。これらの制限が観測上の選択効果を生み出す。制約や選択なしに観測できれば、モデルは理想ではなく、その主張通りのものが実現していることになる。観測に関しては知覚上の選択効果が、視点や錯視を通じて考え易いが、推論上の、知識に関する効果も同じように存在する。(例えば、日本語が不透明というのは選択効果の一つである。)
 一方、選択効果を過大評価してはならない。この効果は白を黒と言いくるめる程の効果ではない。観測に人間である制約や選択が働くとはいえ、観測は制約や選択とは独立に、対象や得られるデータの存在を前提にして行われる。
 観測と理論やモデルとの違いは由来と内容の違いにも現われる。内容に対して選択効果は効果を発揮しない場合が多いが、由来は大きな影響を受ける。観測は不可避的に由来に結びついているのに対し、それから独立して何かを主張するのが理論である。観測のもつ因果性、局所性は状態や出来事の由来の性質であり、選択効果はそこに生じる。一方、理論のもつ対称性は状態や出来事の内容の性質であり、内容と由来が独立している限り選択効果は原理上ない。

 さらに、ボルツマンは物理過程のもつすべての見かけの時間非対称性はどのように背後で時間非対称性を仮定せずに説明できるかを明らかにする。それは次のような説明である。

非対称性は基本的には時間対称的な宇宙の中で偶然によって生じる。そして、なぜそれを私たちが見るかは人間原理を使った推論で説明される。

これはアイデアとしては見事であるが、果たして正しいのだろうか。
 このボルツマンの考えには二つの問題がある。次の人間原理を使った推論を考えてみよう。

私たちはいま居る場所とは別の場所に居ることはできない。それゆえ、極めて居そうにもない場所に私たちが居ることがわかっても何の不思議もない。
(この推論ではどのように人間原理を使っているか。)

 ここで私たちが現在地上に存在するのにどのくらい可能性が低いか考えてみよう。過去に私たちの存在を脅かしたもの、脅かしたかもしれないものをすべて考えたなら、それ以上の不可能性の証拠は必要ないだろう。私たちが現在存在しているのはほとんど奇蹟である。だから、私たちの存在が不可能に近いことを見出せば見出すほど、理論には何かが欠けているという疑念が強くなってくる。
 だが、もっと困難な問題がある。ボルツマンの確率が私たちにとっての手引きであるなら、嘘の記録や記憶をつくることのほうが本物の出来事をつくりだすことより遥かに簡単である。例えば、神が可能な世界史の中からアリストテレスの完全な著作を探し出すとしてみよう。その際、彼のテキストが分子の自発的なゆらぎからできあがったような現在の世界と、本当のアリストテレスが書き上げた著作からなる世界とでいずれがより可能性が高いだろうか。答えは自発的なゆらぎからできあがった世界である。そのような世界を神は遥かに高い確率で探し当てることができる。なぜなのか。理由は簡単で、現在の世界のほうがアリストテレスの住んでいた世界よりエントロピーがずっと高いからである。別の言い方をすれば、現在のアリストテレスの著作を含む、ほとんどすべての可能世界はアリストテレス自身を含んでいない。だから、アリストテレスと彼の同時代人が存在していたということはほとんどありそうにもないことになる。同じことは他の対象についても言える。したがって、私たちの過去の記録や記憶はほとんど確実に誤ったものである。

(問)上の議論を整理して、結論が出てくる理由を述べよ。

 このようなことは明らかに理不尽である。したがって、ボルツマンの考えはうまく行かない。だが、すべてが悪いわけではない。統計的な推論から、現在のエントロピーが低いならば、エントロピーが過去、未来の両方向に高くなるというのは正しい結論である。したがって、真の問題はなぜエントロピーが未来の方向にだけ高くなる(あるいは、過去の方向にだけ低くなる)かではなく、なぜ過去のエントロピーは低かったかである。過去の低いエントロピーが説明できるなら、それは熱力学の時間の矢が説明できたことになる。(どうしてか。)
 実際には、少なくとも宇宙の私たちの領域でだけ確認できる、変則的な低エントロピーが一つだけあるように見える。この変則はごく単純なことで、ビッグ・バンのすぐ後には物質は宇宙に極めて一様に分布しているということである。なぜこれは変則的なのか。一様に分布する物質は秩序がほとんどない、つまり、高エントロピーではないのか。
 重力をもつ物質の自然の傾向は一緒になることである。したがって、典型的な宇宙は一様に物質が分布しているのではなく、むらのある分布になっている。それゆえ、物質が一様に分布する宇宙はほとんど存在せず、極めてエントロピーが低いことになる。こうして、残された問題は次のようになる。

なぜ宇宙はビッグ・バンの直後に一様なのか。

これが解ければ、熱力学での時間の矢の起源がわかることになる。だが、現在のところ確固たる答えを私たちはもっていない。

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