mixiユーザー(id:64329543)

2017年11月19日06:01

68 view

富士塚

 中央区湊の鉄砲洲稲荷神社の境内には「富士塚」がある。かつて「富士詣」と称して多くの人々が、このミニチュアの富士山を参詣に訪れた。6月1日はお山開きで、江戸の人々は家々の軒下で線香を焚いて富士を遥拝した。江戸時代「富士講」と呼ばれる富士山を信仰する人々の集まりが各地で組織され、富士山に参詣する「富士詣」が流行した。特に、江戸の町には富士山に行かずとも富士詣ができるようにと、あちこちに人工の富士山が作られる。鉄砲洲稲荷もその一つで、駒込、浅草、四谷、深川などと並んで有名だった。

フォト
(鉄砲洲稲荷神社)

フォト
(富士塚)

フォト
(登山道)

 ところで、白神山地や屋久島は世界自然遺産だが、富士山は世界文化遺産。「信仰の対象と芸術の源泉」が登録された理由である。山岳信仰の権威である先輩の宮家準先生によれば富士山信仰は次のようなものだった。
 秀峰富士山は神霊の住む所だけでなく、遠く万葉集の昔から歌に詠まれてきた。富士信仰の原点は水。富士の水は伏流水で、それが集まり、川、池、湖になっているが、湖は龍神がいる霊地とされていた。富士は活火山で度々噴火した。古代人は噴火を富士の神の怒りと考え、それを崇め鎮める為に神社を設けた。
 富士の神を祀った神社名の「浅間」は訓よみで「アサマ」だが、この語は伊勢神宮の奥院とされるアサマ(朝熊)山のように祖霊、神霊の屋所で、信濃の活火山の浅間山のように火山を示す語。最初の富士の登頂者は12世紀中頃の駿河の末代(富士上人)である。14世紀初期には富士山本宮の宮司家出身の頼尊が富士の山頂に大日、阿弥陀、薬師を祀り、村山に富士根本浅間神社、大日堂、鎮守の大棟梁権現社から成る興法寺を開基し、富士登拝とあわせて、富士から愛鷹山をめぐる富士行を始めて、村山修験を確立した。
 戦国末から江戸初期に長崎出身の修験者長谷川角行は、富士山西麓の人穴に籠もって、角柱に立って修行し、浅間菩薩から角行の名を授かった。その後、富士吉田から度々登頂し、江戸で流行っていた奇病を治し、多くの信者を得て富士講を創始した。江戸中期には上吉田の冨士浅間神社を再興した村上光清や富士山で入定した富士講中興の祖、食行身禄などの傑出した先達が現れた。特に、身禄は富士山頂で浅間菩薩から入定を指示され、享保18年6月15日から5合目の石室に籠もって断食行をし、31日目に入定した。その間の日々の教えを弟子の吉田御師田辺十郎右衛門が筆記した『三十一日の御巻』は富士講の聖典となった。弥勒の世の到来を確信して入定したことが人々の心を引き、富士講は急速に広まった。

フォト
(江戸自慢三十六興「鉄砲洲いなり富士詣」歌川豊国(三代)、歌川広重(二代) 鉄砲洲稲荷神社が背景になり、富士塚に登った人が見える。)



0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する