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2017年09月22日04:14

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アリストテレスの正常モデル

(今回もアリストテレスの影響の強さ、呪縛の内容についての話)
 アリストテレスは他の動物との比較によって人の生殖を研究した最初の人であり、彼の考えによれば、精子が胎児を産み出す種をもち、月経の血がそれを成長させる土壌となる。アリストテレスは、胎児をつくり、成長させるのは霊魂であり、男はその形相因、機動因であり、女はその質料因であると考えた。彼の考えはトマス・アクィナスに引き継がれ、カトリック神学の基盤となる。人間はまず植物的、次に動物的、最後に人間的の順に成長していく。初期の教会では嬰児殺しより、植物的段階の堕胎に対する倫理的な反対の方が少なかったのはこの考えからである。また、精子は生命の本質であるので、それを浪費することは重大な罪と見做された。一方、イスラム教では女の精子も生殖において血や肉を造る素になると考えられ、男の精子だけでは生命はできないので、男の精子の浪費は問題ではないとされた。こうして、マスターベーションに対してキリスト教とイスラム教では異なる態度が取られることになった。
 性やジェンダーの議論に限らず、人間の心理や行動を語る場合、「正常な(normal)」、「異常な(abnormal)」という言葉が多用される。今でも、病気は身体的、精神的な異常だと考えられている。「異常性愛」という言葉は正常な性愛があって、そこからのズレと考えられている。「正常」や「異常」には機能不全の他に、事の「善し悪し」に似た、価値判断が含まれているようにみえる。ここには規範にかなっていれば正常、もとれば異常という判断が含まれているようである。そのような判断が含まれているのであれば、「正常」や「異常」を含む考察や研究は価値判断を含むものとなってしまう。「健康」と「病気」との区別にも同じような価値判断が含まれている。では、このような理解はどこから生まれてきたのか。

 どのようなものにもそれ本来の存在の仕方と場所があり、その本来的な姿を正しく把握することが本質の理解につながるというのがアリストテレスの「正常モデル」の考えである。アリストテレスの物理学は目的論(teleology)に満ちている。彼は星も有機体に劣らず、目的志向型のシステムであると信じていた。内的な目的が重い対象を地球の中心へと引きつける。重い対象はこれを自らの機能としてもっている。どんな対象にもその自然状態があり、その対象の不自然な状態から区別される。対象が不自然な状態にあるのは外部からの干渉が働いた結果である。自然な状態にある対象に働いて、その対象を不自然な状態にする干渉力は、自然なものを偏向させる原因である。したがって、自然の中に見られる変異は自然な状態からの偏向として説明される。干渉力がなければ、重い対象、軽い対象ははみなそれぞれの本性に従い、本来の場所に存在することになる。ニュートンとそれ以後の物理学には「自然な」、「不自然な」という語は登場しなくなるが、アリストテレスの区別はそれらの物理学においても可能である。対象に働く力がなければ、当然、干渉力もない。力学での自然状態は力の働かない状態であり、「慣性の法則」がこれを表現している。また、目的と機能はアリストテレスでは結びついていたが、ニュートン以後の物理学では切り離されている。
 このモデルは物理的なものだけではなく生物に対しても適用される。人間の正常な姿が人間の本質を具体化したものであり、その本質からズレたものが正常でないものである。それら異常なものはたとえ出現しても篩にかけられ、選択され、支配的になることはない。このモデルは天体の構造や生命現象を大変うまく捉えている。模範になる姿があって、それに外れるものはたとえ存在しても、あくまで例外に過ぎない。

 アリストテレスの正常モデルと根本的に異なるのがダーウィンの変異モデルである。彼は生物集団の中には常に変異(variation)が存在し、それが個体差(個人差、個性)として選択のふるいにかけられ、生存と生殖に関して有利なものがその集団の中で多数を占めるようになるという、いわゆる自然選択説によって生物の進化を説明した。この説明の出発点は変異の存在である。この変異、個体差には正常も異常もない。あるのは個体間の差だけであり、この差が選択の原動力になっている。したがって、正常、異常とはある時点の集団の多数派、少数派に過ぎなく、本質的なものではない。

 このように見てくるとアリストテレスとニュートン、ダーウィンの違いは歴然としている。では、私たちが現象を考える際、いずれのモデルを採用して考えているだろうか。多分、物理現象、生命現象に関してその原理的な部分ではニュートン、ダーウィン風に、私たち自身の身体的現象、行動に関してはアリストテレス風に考えているだろう。異常な行動は大抵の場合悪い、してはならない行動とさえ考えられている。このように述べただけでも、そのような分析が価値判断を含むかどうか、価値判断からは中立かといったステレオタイプの問題ではないことが明らかだろう。
 アリストテレスのモデルが(かつて考えられていたように)正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は優れて科学的な概念であり、それら概念を正しく使っての判断は正しい科学的な判断である。一方、ダーウィンのモデルが正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は科学的に誤った概念であり、それら概念を使っての判断は科学的に誤った判断ということになる。この表現のどこにも価値判断など入っていない。問題は「正常」、「異常」を最初から価値判断が入っていると思い込むことである。確かに、より複雑な人間の行動に関しては科学的でない基準や約定が関与しており、そこから価値判断を含んだ「正常」や「異常」が生まれ、伝統をつくってきた。しかし、それら基準や約定は科学的な知見に依存している。その科学的な知見が正しいかどうかを判定するのはいずれのモデルを選ぶかという問題であり、価値判断とは独立した事柄である。

(問)誰かの考えや行動について、正常か異常かと尋ねられたとき、あなたはどのような基準で判断してきたか。その判断に価値が含まれていると思っていたか。


 まず、正常や異常の区別のない物理学でのモデル、それも簡単な古典力学のモデルを考えてみよう。そもそもなぜ力学モデルには正常や異常の区別がないのだろうか。この問いに対して、異常なものは力学法則に違反するが、力学法則は普遍的であるから、異常なものは存在し得ないというのが普通の答えであろう。力学法則の普遍性が正常、異常の区別の存在を否定するのである。この説明は一見説得力があるように見える。しかし、二つ以上の異なる自然法則があり、境界条件等の違いによってその適用範囲が異なるなら、一方の法則に従うものを正常、他方の法則に従うものを異常と呼んではいけないのだろうか。粒子と波は異なる法則に従う。粒子は波の異常な形態なのか、あるいは波は粒子の異常な形態なのか。この問いに対する常識的な答えは、対象に関する多元論である。波と粒子を異なる対象として共に認めるならば、波は波の法則に、粒子は粒子の法則に従い、正常、異常の区別は「異なる対象には異なる法則を」という多元論のモットーに従って回避されることになる。そして、同一の存在論的なカテゴリーの中では正常、異常がないことも保たれる。粒子と波が異なる法則を要求しても、それらは二元論という棲み分けによって両立する。粒子は波と異なるが、粒子の中では正常、異常の区別はなく、これは波についても然りである。
 多元論の導入は物理学では普通のことのように見えるが、これが決して十分な解決でないことは物理学自身の統一理論(unified theory, GUT)への試みがその端的な証拠となっている。この理論は異なる力を統一して普遍的な説明を求めようとしている。物理現象に対する統一的な説明は物理法則の普遍的な適用によってなされ、その適用は対象の一元論を要求するのである。つまり、「異なる対象には異なる法則を」ではなく、「どんな対象にも同じ法則を」が求められている。
 では、物理法則に関して同じカテゴリー内で正常、異常の区別の可能性が考えられないのはどのような理由からなのか。同じ物理量の組について二つ以上の理論がつくられたら、一つだけが生き残るか、あるいは総合されて一つの理論になり、その結果、理論の主張は一つの自然法則にまとめられ、同じ種類の対象について二つ以上の異なる内容の法則が成立することはないからである。これは正常、異常の区別が存在しないことの極めて強い理由である。では、原子は正常と異常の区別ができるか。原子は物理量の違い以外は同じであり、物理学では物理量以外の性質は不問に付されている。物理量は変化し、原子を根本的に区別するものではないと考えられている。したがって、物理量を除いた原子は基本的に皆正常である。その理由は皆同一であるからである。
 それでは、物理学以外の場合はどうか。化合物、細胞、生物個体、生物種(species)と階層的に考えていくと、次第に正常とそれからのずれが説明において必要になってくる。そして、その典型が生物種であり、生物種は一定範囲内の性質の束を共有しているにもかかわらず、同一種内の個体は皆互いに僅かに異なっている。極端な場合が私たち人間の個人である。例えば、水の分子をみな同じと見なすことに不自然さはないが、人間を含めた生物個体の場合、種内の個体差は歴然と存在し、それを無視することは重大な影響を生む。むしろ、個体差こそが私たちの個体概念の基礎となっている。実際、各個人は他の個人と異なることによってその存在を保っている。これは原子や分子という存在と生物個体や個人が極めて異なった存在であることを示している。原子や分子は文字通りの意味でユニークな個体ではない。それらはタイプの一例以外の何ものでもなく、酸素原子はタイプ「酸素」の具体例という特徴しかもっていない。部屋に充満する酸素原子はどれも同じ原子であるが、その部屋にいるハエや人間の各個体は皆異なっている。だから、生物個体や個人については正常、異常を自然に考えることができる。皆異なっていながらも、一定の範囲にあるものが正常、他は異常と判定できるからである。同一の遺伝子をもつ双生児であっても、私たちは彼らを異なる人間と見る。実際、一卵性双生児であっても異なる特徴や性質をもっているし、時には一卵性双生児の一方だけが異常とされる場合すらある。

 私たちの日常生活の中でアリストテレスの正常モデルはしぶとく生き残り、正常や異常の区別が差別や偏見を生み出している。ダーウィンの変異モデルはもっと重宝されてもいいのではないか。

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