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2017年12月13日10:33

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目的論と進化論

こどもが、「地球上にはどうしてこんなにいろいろな生物がいるの?」という疑問をもった時に、「人間が食べたり、ペットにしたりするためだよ。」と目的論的に説明してやると、簡単に納得するらしい。

アリストテレスは、ある対象の本質を知るには、その対象の最終目的を調べると良いと言う。すべてのものは、単に潜在的である状態から、現実にそのものである状態に移ろうと努力しているというのである。

例えば、ドングリというものが何であるかと考える場合には、「ドングリの目的」について考えてみる。つまり、ドングリは最終的に何になるのかを考えてみるわけである。そのドングリが椎の木になるならば、椎の木がそのドングリの目的であり、つまりそれは「椎の実」ということになる。

目的論の問題点は、根拠を示せないままなにかの意志が働いていると仮定することである。

われわれ人間について反省すると、「目的」という言葉を使うときは必ず欲望(欲求)に基づいている。最終目的はすべて欲望(欲求)に還元されてしまうはずである。われわれは欲望に基づいて目的を設定するのであって、最初に目的があるわけではない。「目的」という言葉はその程度のものである。

ところが、往々にして自然を擬人化してその潜在的可能性を欲望であるかのように見立てることから進化論への誤解が生じる。

「キリンは高い枝の葉っぱを食べることができるように首が長くなった。」だとか、「ガゼルはライオンに食べられないように速く長く走れるようになった。」というような表現をよく耳にする。「〜のために〜」というような目的論的な表現はまるで「種」というものがなにか主体性をもっているかのように響く。

キリンという「種」が首を長くしようと目論んでいるわけではない。誰かがガゼルを速く走らせてやろうと考えているわけでもない。キリンもガゼルも各個体はただ生きて死ぬだけである。生きている間に子供を残せば、子孫が生き残る。ただそれだけのことである。どの子孫が生き残るかは自然の側に選択権がある。それは単なる運かもしれないし、首が長いとか走るのが早いというのは選択される確率を高めるかもしれない。

進化論を考える上で間違いやすいのは、種が変化していくという考えである。そうではなく、遺伝子の変異は無作為に起こる。つまり種はどんどん枝分かれしていく。枝分かれしていく過程で生存に適さないものは淘汰されていく。言うなれば、残るべきものが残る、という当たり前のことを言っているだけなのだ。

進化論は目的論とは最も遠い考え方である。一種のニヒリズムであると考えた方が適切である。
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