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2017年05月24日23:31

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一個人のたわいのない見方

死刑って、たぶん法の精神からすれば、敗北なんだと思う。
法による秩序の名の下の死刑は、結末的には被害者や社会といったものの感情の発散でしかない。感情の発散は、知性よりも野生に帰属されるものだから、人類の叡智を旨とする法による秩序と安寧は重大なパラドクスを含む。
すなわち危険因子排除のために、その禁止事項を自らが踏むというパラドクスと自らの感情的悲憤による殺人の肯定だ。
社会的安定と秩序の名の下に、一人を抹殺する。
一見、正しいように見えながらも、ここにいつまでも終わらない螺旋のような関係性が薄っすらと見え隠れする。

少し感情的になってしまっている気がするが、世の中がそこまで単純であろうはずもないことは百も承知だ。
理想で社会は変えられない。
変えられるのは理想を持ちつつも、現実的な変革を続ける気が遠くなるような苦労の連続だ。
だが、人類社会もそうやって発展してきた。
今が到達点なはずもない。まだ発展段階なのだ。
死刑にまつわる法体系もやがては変えられる日が来るだろう。

話が逸れたが、
法による体制からすれば、今回のようなことは、瑕疵以外のなにものでもない。
これらの結果は、最終的に犯罪率の増加を生む温床となるのだろうか。ますますもって慨嘆を禁じ得ない。

私一個人としての思い出による感傷から述べれば、死刑囚の境遇は悲惨だ。安定的な生活のなかで、いきなり殺される。
私の祖父が刑務官だったが、死刑囚が連れて行かれる時に叫んだ声が忘れられないと、言っていた。
「みなさん、さようならー!」
と。


■連続企業爆破事件、大道寺死刑囚が死亡 東京拘置所で
(朝日新聞デジタル - 05月24日 14:38)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4587325
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