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2016年05月08日05:53

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スタルヒン投手のドキュメンタリーを見て、田中真理さんを思い出す。NHKプレミアムカフェ「野球がパスポートだった〜ヴィクトル・スタルヒン〜」(初回放送2010年)。

僕がスタルヒン投手の名前を知ったのは、交通事故で亡くなったニュースだったと思います。1957年の1月、新聞記事を読んだ家族が話題にしていたのを記憶している。僕は小学校3年生でした。そして1960年4月、別所投手が302勝目をあげて、日本プロ野球の通算最多勝を更新したとき(後に記録訂正があり新記録達成は7月に)、再びスタルヒンの名前に接しました。そのとき僕は、中学1年生でした。たかだか3年前でしかないのに、“ずいぶん昔に亡くなっている人の記録を抜いた”という印象でした。

そしてレコード会社に勤めて上京、1973年にテレビドラマ「白い影」のテーマ曲をレコード化することになり、そのB面に、歌手役で出演していた田中真理の歌を収録することになります。僕は販売促進担当のスタッフとして、田中真理さんとの食事会に出ました。“ロマンポルノのスター”として有名だった田中真理さんですが、会えば二十歳そこそこの娘さん。僕より“4つも年下”の女優さんでした。

今、二十歳そこそこの女優さんに会うと(いや三十代の女優さんでも)、若々しい美貌に見とれてしまいます。でも結婚して2年もたっていない当時の僕は、田中真理さんを美人だとは思いましたが、やはり別世界の人という感覚でした。しかし色白で端正な美貌には驚きました。聞けばスタルヒン投手の親戚だとか。←僕は“クオーター”と聞いて勝手に“孫”だと判断していましたが、実際はスタルヒン投手の奥さん(二度目の妻ターニャさん)の姪でした。

残念ながらシングル盤はヒットにはならずに終わります。そして1975年、大森一樹監督の「暗くなるまで待てない」の試写会に行ったら、田中真理さんが来ていました。僕は、仕事の上での食事会で会っただけですから、親しく声をかけるということをためらっていました。そしたら真里さんが“北村さん、冷たいじゃないの”と声をかけてくださった。食事会の後、会社に1〜2回お見えになっていたけど、あまり会話もなかったのに。それからしばらく、年賀状を交換する関係となります。

そして先日、マイミクさんが日記で田中真理に触れておられ、僕は“孫じゃなかったか”と書き込んだわけです。そしてたまたま5月2日に再放送していた「野球がパスポートだった〜ヴィクトル・スタルヒン〜」を録画していたことを思い出し、観賞しました。日本の野球界が第二次大戦という激動の時代に、いかに自分勝手にふるまい、スタルヒン投手の人生を翻弄したか。その一部始終が語られます。40歳で亡くなったスタルヒンを、“年取った野球選手”と思っていたけど、僕の息子は今その年齢を上回っている。

スタルヒン投手は両親と共に、ロシア革命によって日本に亡命、同じような境遇のレナ夫人と結婚しますが、戦時中の敵性外国人扱いなどから離婚、戦後高橋ターニャ(高橋久仁恵)さんと再婚したそうです。その高橋さんがロシア人と日本人のハーフだったわけで、田中真理さんは高橋さんの姪にあたります。スタルヒンからは義理の姪。

しかしまあ、スタルヒン投手だけでなく、別所投手引き抜きといい、江川問題、そして桑田投手のドラフト指名などなど、某瓦版が所有するプロ野球球団はやりたい放題ですね。それに比べると阪神は、やりたいことがいくらあっても“出すものは舌も出さない”というケチケチだから、こういう事件は起こさない、いや起こせない。せいぜい広島カープから人材をいただくしか能がありません。←昨日、せっかく同点に追いついたのにヤ軍に負けやがって、そのせいでムカついています。

その田中真理さんも今年で65歳か。いつまでもお元気で、そしてあの眩しいばかりの美貌(と今になって実感)を、いまでも僕たちに思い出させてください。写真3はシングル盤の歌詞カードです。
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