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2018年04月23日16:51

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中国王朝史11 江南の南北朝時代

●江南の五胡十六国時代

華南(揚子江の南部を中心とした地域は「江南」と呼ぶのが一般的)に於いては、
分類上の呼び名として「六朝時代」と呼ばれる期間がある。
三国志に登場する呉の孫権が
建業(現在の南京市)を220年に開発して後、後漢末期の三国時代は「呉(孫呉)」が、
その「呉」を西晋が滅ぼした後は暫く「西晋」が、
(西晋は六朝にカウントされない)
「西晋」滅ぶと同時に「東晋」が、
以下、「宋」「斉」「梁」「陳」がそれぞれ王朝を建てていたのである。

華北が異民族の王朝の興亡が続いていたのに対して、
漢民族と思しき支配者の王朝が継続した事は、
ある意味「文化の保護」の観点では幸いであった。
老荘思想はこの時期育まれ、
それまでは外来宗教の一つだった仏教や、
陰陽道など道教などの神仙主義もこの時期に醸成されたのである。
現在の古代中国の神仙主義的なイメージはこの頃に作られた世界観が
大きいという事である。


●東晋ハイスクール
「東晋」は、前年317年に滅亡した「西晋」の後を受けて、
318年に司馬睿が即位したのが始まりである。
それまでは「呉」(三国志時代の孫氏が作った国)の首都であった「建業(現在の南京市)」を「建康」と改称して、
ここに都をおいた。
歴史学的な分類では「五胡十六国時代」と呼ばれていた期間も、
北方民族なので北や西から進出していた五胡が華北の覇権を争って戦争を続けていたが、
江南は別の流れの中にあった。
そんなこともあり「孫呉」と「東晋」とそれ以降の江南の王朝については
「お座なりにされがちである。

 前出の「淝水の戦い」(383年)では、
勢いに乗る華北の「前秦」が100万ともそれ以上とも言われる大軍を率いて
東晋に侵攻してきたのだが、
これを退けるなど勢力を維持していた。
しかしその実態は強力な軍閥の存在に裏付けられたものであり、
403年に一時、軍閥の桓玄に王位を簒奪されるなど帝威はあまり高くなかった。
その後再興されるも殆ど権威も低いまま「東晋」は420年に滅亡した。

 その後「宋」「斉」「梁」「陳」という王朝が次々と興るがいずれも長くは続かず、
やがて華北の支配に成功した鮮卑系の「隋」に呑み込まれ、
再び中国は統一王朝の治世になるのである。


●年表10 六朝
222年 「呉(孫呉)」がそれまで臣従していた「魏」から独立し帝位を唱える
280年 「呉」が「西晋」に滅ぼされる
317年 「東晋」が建業で起こり、都を「建康」に改める。
420年 「宋(劉氏)」が興る。
479年 「斉(蕭斉、南斉)」が興る
502年 「梁(蕭梁)」が興る
557年 「陳」が興る
589年 「隋」が「陳」を滅ぼす。

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