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2016年02月14日22:22

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こころの時代 渡辺和子・安田善三郎を、自分はこう見ました

渡辺和子(1927 - )は学校法人ノートルダム清心学園の理事長。安田善三郎は、2・26事件の時、教育総監であった渡辺錠太郎を襲撃してとどめを刺した陸軍少尉、安田優の弟だ。
この二人の接点は、渡辺和子が、父、渡辺錠太郎が襲撃され、殺されるところを目撃していた所から始まる。

渡辺錠太郎53歳の時の子であった和子は、特に可愛がられたそうだ。
父から避難するよう促されたが、心配で戻ってきてしまう。
父は困ったような顔をして、物陰に隠れるよう指示したという。
そして機関銃で打たれ、足の骨が見えるくらいになって、肉片は天井に貼りついていた。
とどめを刺しにきた二人の少尉の一人が、安田優だった。
「ただね、父は一人も殺していないんです。自分の兵を、一人も殺さなかったんです」
和子は後年、それが慰めになったようだ。
その父を殺した人たちへの恨み、憎しみから抜け出すには、長い月日が必要だったという。

そしてその和子が、やっとそれから抜け出せた頃に、2・26事件で処刑された人たちの慰霊祭をやることになり、招待されたことから、二人の交流が始まる。
慰霊碑に手を合わせ、祈ってくれている和子の姿を、安田は涙を流して見ていた。
礼拝を終わって帰ってくる和子に、同じくとどめを刺した高橋少尉の弟と共に、泣きながら挨拶して、「これでやっと癒されました」と言ったという。
善次郎にとっては、50年間背負ってきた苦しみから癒される瞬間だった。

安田の実家は、天草の貧しい農家だった。五人兄弟で、長男は京大、次男の優は陸軍士官学校に進む。
教育熱心な親で、子供たちも、よく期待に応えたという事だろう。
ほとんど高等教育を受けるような子供がいなかった貧しい村では、羨望と嫉妬の眼差しがあったという。
しかし、昭和8年に長男は滝川事件で逮捕され、一年留年。
次男は、2・26事件で殺人者になって、その年の夏に処刑された。
それ以来、善三郎にとって兄が、心に刺さった棘になってしまう。
喧嘩をしても、相手から「おまえの兄貴は殺人者だろう」と言われると、黙らざるを得なかったという。

大義のため、陛下の為と考えようとしても、善三郎の心は癒されなかった。
「彼らの信じた天皇は、本当に彼らのための、或いは我々の為の天皇だったのでしょうか?」
決してそうではなかったのではないかということ。

和子は、残された母の手で、厳しく育てられた。
父も、小学校も満足に行けなかった人であったが猛烈に勉強し、給料の半分は丸善(輸入図書を扱っていた書店)に行くという家庭だったので、教育にはとりわけ熱心だったようだ。
和子の成績は、高校までトップクラス。
100点取れなかった日は、自宅の門の前で、母に叱られるんじゃないかと悩み、なかなか入れなかったいう。
終戦が近くなったころに、洗礼を受けてクリスチャンになる。
その後、上智大学に進み、教団からアメリカに派遣されて、教育の博士号を取って帰国。ノートルダム清心学園の学長に、30代で就任する。
しかし、学校のある岡山は初めての土地。
先輩たちとの確執もあって、精神的に参ってしまう。
もう学校も辞めてしまおうかと悩んだそうだ。
そして、上智大学時代に知り合った、アロイシャス・ミラー神父に相談すると、こういわれた。
「Unless you change nothing changes(あなたが変わらなければ 何も変わらない)」
母からは
「あなたは言い返せるかもしれない。しかしそれをしたら、あなたの大きさは、あなたの言い返せるだけの大きさでしかなくなる。そんな小さなことにこだわらず、忘れてしまいなさい」
と言われたという。

「慰められるよりも、慰める人におなりなさい。
愛されるよりも、愛する人におなりなさい。
理解されるよりも、理解する人におなりなさい」
ということですねと言っていたが、(どこかで聞いた言葉だと思ったら、アッシジの)フランシスコのお祈りだった。

そして、父はいい時に死んだのかもしれないと思えるようになったという。
生き延びていたとしても、戦犯として処刑されるような立場になっていたかもしれないと考えるのだ。

「不幸だと思っていることも、神の恵みなのだ。あなたのために必要だったのだ」
「だからある意味で、バカにならなければいけないんですね」
「神は、乗り越えられない試練を、お与えにはならないのだから」

ノートルダム清心学園の玄関には、河野進の書で、次の言葉が掲げられているという。

「どんな不幸を吸っても
はくいきは
感謝でありますように
すべては恵みの
呼吸ですから」

最後に、若干の恨みが残るのは、青年将校たちを裏で操っていた将軍たちに対してだという。
荒木貞夫も真崎甚三郎も、軍事裁判で無罪になり、戦後は、階級別に支給された軍人恩給で、優雅な老後を送った。
しかしそんな恨み言を言う為の番組ではない。
殺した側の人間と、殺された側の人間の和解。
それに、50年かかったということを、忘れてはなるまい。
戦場で「大義のために」「やむを得ず、自衛のために」でも、殺された人と殺した人の遺族が和解するには、それだけの歳月が費やされなければならないのだ。

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