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2018年10月17日21:14

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民主党政権「影の総理」、仙谷由人氏の功罪 享年72、親分肌の政治家だった

 下記は、2018.10,17 付の 東洋経済オンライン に寄稿した、安積 明子 氏の記事です。

                        記

 仙谷由人氏が10月11日に亡くなったことが、16日明らかになった。享年72。鳩山由紀夫内閣では行政刷新担当相や公務員制度改革担当相として民主党の目玉政策を担当し、菅直人内閣では内閣官房長官などを務めて政権を支えた。その影響力から「影の総理」とも言われたが、その辣腕ぶりから「赤い後藤田(正晴)」「赤い野中広務」とも揶揄されることがあった。

安田講堂事件では「弁当差し入れ役」

 「赤い」とされたのは、その経歴が原因している。東大時代は全共闘の闘士で、1969年1月の安田講堂事件では「弁当差し入れ役だった」と伝えられた。

 また弁護士として1969年から1971年にかけて発生し、計18人が逮捕・起訴された「土田・日赤・ピース缶爆弾事件」(全員無罪)や、保坂展人世田谷区長が東京都と千代田区を訴えた「麹町中学内申書事件」など、思想的な背景のある事件を担当した。社民党の福島瑞穂参議院議員が新人弁護士時代に仙谷氏が所属する事務所に勤めたという関係もある。

 国政への進出は1990年の衆議院選だ。当時の徳島県全県区から出馬して2位で当選。しかし1993年の衆議院選では次点に泣いた。

 小選挙区比例代表並立制が導入された1996年の衆議院選からは、連続して5選を果たしている。民主党が下野した2012年の衆議院選では大きく票を減らして落選し、比例復活もかなわなかった。2014年には12月の衆議院選を前に「若い人に戦ってもらうのがベター」と引退を表明。それ以降は弁護士業務に専念していた。

 仙谷氏は死去したのは10月11日だったが、その2日前まで事務所で仕事をしていたという。また今月4日には評論家の田原総一朗氏と昼食を共にし、9月には国民民主党の玉木雄一郎代表と新橋の事務所で懇談していた。おそらく仙谷氏本人にとっても、その死は早すぎたものだったに違いない。

 「あえてヒール役をかって出た人だった」

 仙谷氏の死去が報じられた16日夜、玉木氏は筆者にこう語って故人をしのんだ。

 「たとえば物議をかもした『自衛隊は暴力装置』発言だが、『暴力装置』はよく知られた政治学用語でそれを使っただけなのに、あたかも仙谷さんが『自衛隊は暴力組織だ』と言ったように誤解された。しかし実際の仙谷さんは法律の知識ばかりではなく、歴史や哲学などにも通じ、最高レベルの知性と深い情を持ち合わせた人だった。先月会った時も話題は人工知能などに及び、これからの日本がどうなっていくのか、高い関心を寄せておられた」

「仙谷先生、早すぎます」

 実は仙谷氏を慕う人は数多い。ある元民進党関係者は目を赤くしながらこのように述べている。

 「仙谷さんはいまの政界にはなかなかいない親分肌の政治家だった。特に有能な若手を抜擢して活躍の場を与えていた。参議院議員だった松井孝治慶應大学教授など、その例だ」

 その松井氏は16日に訃報を聞き、「仙谷先生、早すぎます。いくらなんでも、早すぎます。せめてもう一回お話ししたかった」とツイッターで慟哭した。松井氏は参議院議員時代に民主党の政策シンクタンクである「公共政策プラットフォーム」の立ち上げに尽力したが、その中心となり代表理事を務めたのが仙谷氏だった。松井氏の能力を買い、「300日改革プラン」を描かせたのも仙谷氏だ。

 その党内きっての政治手腕を頼りにすべく、「仙谷政権」を目指す動きもあった。松井氏ら当時の若手議員数名は党内で最有力者だった小沢一郎氏が定宿としていた八重洲富士屋ホテルにその案を持参したが、小沢氏は最後まで首を縦に振らなかったという。旧社会党出身ながらリアリストの仙谷氏と、自民党出身ながら左派勢力と通じるところが多い小沢氏では、その考えは近いように見えて完全にすれ違っていたということだろう。

 それにしても仙谷氏ほど毀誉褒貶(きよほうへん)が激しい政治家は少ない。党内若手政治家には評価が高い一方で、国民の目には理解しがたい政治家として映ったこともある。たとえば2010年9月7日に尖閣諸島近海で勃発した中国籍のトロール漁船と海上保安庁との衝突事件だ。海上保安庁は船長を逮捕し、公務執行妨害罪で那覇地検石垣支部に送検した。

 違法行為に対して司法の手続きに乗せるのは当然のことだが、自民党政権下ではそうはしなかった。「尖閣諸島は日本領土」というのが建前だが、故・田中角栄首相が訪中した際に「領土問題は棚上げ」したという密約説もある。そこは「大人の対応」ということで、中国政府と極秘に連絡を取ったうえで解放していたのである。

 当時は菅政権内でこの経緯について知っていた人はほとんどいなかったのだろう。官房長官として政権の中枢にいた仙谷氏も例外ではなかった。だからこそ当初は法律家として法の手続きに乗せるのが妥当と判断したのだろうが、中国政府が本気で怒っているのに気づくと、旧来の知人である対中ビジネスコンサルタントの篠原令氏に橋渡しを依頼し、2009年の小沢氏の大訪中団で事務総長を務めた細野豪志衆議院議員を“使者”として北京に送り込んだ。

 この事件は日中関係を悪化させたのみならず、「民主党政権の失政」としていまなお続く国民の不信の原因になっている。

「事実上の官房長官」として留任しようと画策

 またこの件で仙谷氏は参議院から問責決議を受け、自ら辞任しなかったものの、翌2011年1月の内閣改造で解任された。これはまったく本意ではないものだったようで、仙谷氏は事実上でも官房長官として留任しようと画策していたという事実がある。

 というのも、官房長官候補として菅首相が本命としたのは藤井裕久元大蔵相だったが、藤井氏は年齢を理由にこれを固辞していた。その藤井氏の事務所に仙谷氏が突然訪れ、「官房長官を受けてくれ。私が副官房長官になって、官房長官の仕事をやる」と申し出たのだ。

 もっとも藤井氏が官房長官を受けず、官房副長官に就任したため、この時の仙谷氏の目的は達せられなかった。しかし3月には藤井氏と交代して官房副長官に就任。ベテランとして枝野幸男官房長官や福山哲郎副長官を指南する役割を期待されたが、仙谷氏の思うようにいかなかったようだ

 そうしたことも2014年の衆議院選での出馬をあきらめるきっかけになったのだろう。そもそも仙谷氏はさほど権力欲のある政治家ではなかったのかもしれない。前述の松井氏がこう述べたことが印象的だ。

 「民主党がつくったスローガンは『コンクリートから人へ』などいろいろあるが、『チルドレンファースト』は仙谷先生が『これはいいね』と採用されたもの。このスローガンは自民党政権でも通用する普遍的なものだと思う」

 その温かな視点こそが、仙谷氏の政治の原点ではなかったか。その真価については後世の歴史家に委ねることにして、いまはご冥福を祈りたい。

 https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%b0%91%e4%b8%bb%e5%85%9a%e6%94%bf%e6%a8%a9%ef%bd%a2%e5%bd%b1%e3%81%ae%e7%b7%8f%e7%90%86%ef%bd%a3%ef%bd%a4%e4%bb%99%e8%b0%b7%e7%94%b1%e4%ba%ba%e6%b0%8f%e3%81%ae%e5%8a%9f%e7%bd%aa-%e4%ba%ab%e5%b9%b472%ef%bd%a4%e8%a6%aa%e5%88%86%e8%82%8c%e3%81%ae%e6%94%bf%e6%b2%bb%e5%ae%b6%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f/ar-BBOuwSz#page=2
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