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2018年05月22日03:48

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富樫館3

一方、京では義尚の死後に8代将軍義政の異母弟であった義視の子、義材が日野富子(義政正室)の支持で将軍候補となっていた。しかし義政と管領の細川政元は義尚、義材の従兄で堀越公方・足利政知の子である義澄を推薦候補とした。延徳2年(1490年)、義政が死去し応仁の乱当事者の1人でもあった義視の隠居を条件に義材が10代将軍となる。これに反発した政所頭人の伊勢貞宗は辞任。それとは別に同日、富子がかつて義尚が住んでいた小川御所を義澄に譲渡する事を宣言した。これは義視・義材を牽制するためであったというが将軍を軽視する行為であるとして激怒した義視は小川御所を富子の許可なく破却。当然の如く富子と義視、義材は対立していく。義視が死去しても変わらなかった。

延徳3年(1491年)、義材は畿内で相次ぐ国一揆を牽制するため六角征伐を発動して大軍を動員した。勝利したものの、細川政元は反対して参戦しなかった。続いて明応2年(1493年)、河内の畠山基家征伐を発動した。(基家は先の応仁の乱の最大原因の一つであった河内守護職を巡る元官僚の畠山政長と畠山義就の争いにおける義就の子)義就の死後も基家と紛争を続ける政長は将軍に基家討伐を要請して義材はこれを聞き入れたのであった。しかし政元はまたしてもこれに反発。畠山氏が統一されれば自分にとって強大な敵となるからである。そもそも畠山氏の弱体を狙って政長を煽り、大戦の引き金としたのは政元の父である勝元であった。

義材は政元を無視し、動員した諸大名を率いて高屋城に基家を追い詰めた。しかしここに来て政元は基家と同盟するのである。義材と不和になっていた伊勢貞宗や赤松政則、日野富子を味方とし戦国時代の始まりとも言われる大規模なクーデター、明応の政変を発生させた。政則が北加賀守護に再度任じられたのは政元の餌である。さらに政則は政元の姉、洞松院と結婚し同盟を強化していた。またしても加賀、そして富樫氏は中央政権の変事に巻き込まれていくのだ。

義澄を保護した政元は義材の邸宅を包囲。そして義材の弟や妹がいる寺院を襲撃して破壊し、弟の1人である慈照院周嘉を殺害した。この時に指揮権を得ていたのは富子であったと記録は語る。そして政元は義材を廃する事を宣言し義澄を11代将軍に就任させた。(正確には今まで義澄は清晃と名乗っており、将軍になるにあたって義遐(よしとお)を名乗る。そして後に義高を得て義澄を名乗る)

河内にいた義材軍には衝撃が走り、伊勢貞宗が新将軍に従うようにとした「謀書」が送られると大名や奉公衆は解散してしまい政長以外に誰も残らなかった。政元は4万の大軍で義材、政長討伐を行う。二人は本陣としていた正覚寺に100以上の櫓を立てて城塞化し籠城する。政長の領国であった紀伊から1万の援軍が向かっていたが激戦の末に赤松政則に撃破された。政元は正覚寺城に総攻撃を加え兵糧も尽きかけていた正覚寺城は落城。政長は自害し義材は降伏して幽閉された。

その後義材は側近の手引きで越中国に逃亡し守護代の神保長誠がこれを迎えた。正光寺を御所として越中公方となる。結局幕府は二分割された。義材は義伊と改名し能登・畠山氏、越前・朝倉氏、越後上杉氏、加賀富樫氏に政元討伐を命じた。九州の大友氏もこれに参じた。政元は討伐軍を越中に派遣したが大敗する。朝倉軍は先の正覚寺城の戦いで細川方に属して義伊を捕えた側であったが、義伊が越中で挙兵するとこれに馳せ参じる。しかし富樫恒泰は加賀一向一揆を率いて越前に侵攻し貞景を討伐せんとしたが敗北した。

その頃、蓮如は5男であった実如に山科本願寺を譲り自らは石山本願寺に移った。しかし全国に門徒を増やしていく本願寺に対し世間からは警戒のまなざしが強かった。先の9代将軍である義尚は本願寺討伐を考えていたが政元の反対で実現しなかった。そしてその後に明応の政変で義澄を擁立して官僚政権を打ち立てた政元であったが、これまた諸国の守護大名から警戒され対立した。そうした中で唯一本願時を擁護する政元と本願寺は協調路線を歩むのである。蓮如には13人の子供がいた。その内の4人が北陸で加賀一向一揆を指導していた。明応8年(1499年)、蓮如が死去。実如が法主となる。永正2年(1505年)、畠山氏や朝倉氏は政元に対して一斉に挙兵した。これに対し吉崎御坊を始め北陸に多くの寺院、門徒を有する実如は政元直々の協力要請を受けて北陸と河内国で一斉に蜂起する。しかし河内では畠山氏出身で蓮如の最後の妻であった連能が息子であり蓮如9男の実賢を擁立して反発する大坂一揆が発生した。実如はこれに対し連能と実賢、そして蓮如の10男、11男、13男を廃適、追放する。また越前では九頭竜川の戦いで敗北して吉崎御坊は破壊され、越中でも般若野の戦いに勝っただけであった。そして永正4年(1507年)、永正の錯乱によって政元は養子の澄之支持者に暗殺され同じく養子の澄元との戦いが始まる。しかし共倒れして一族で反本願寺の細川高国が管領となった。この間、実如は近江堅田に亡命して亡命生活は2年に及んだ。永正8年(1511年)には義澄が死去。そして義伊は高国や大内義興支援の元に13年の亡命を得て12代将軍として返り咲いた。そして義稙と改名する。富樫恒泰は稙泰から一字受けて稙泰と名乗った。

実如は後継者の円如と共に教団改革に乗り出し武装蜂起の禁止などを定めて行った。しかし永正18年(1521年)に円如が、4年後に実如が死去。まだ10歳であった円如の子、証如が法主となり、蓮如の6男であった蓮淳が後見人となる。蓮淳は体制強化を図るために有力寺院の数々を粛清し始めた。その手はやがて加賀にも及び、享禄4年(1531年)加州三ヵ寺と呼ばれる加賀の中心寺院に対し飛騨の内ヶ島氏などに支援された討伐軍を派遣した。朝倉氏や畠山氏は賀州三ヵ寺を支援。そして富樫稙泰、泰俊親子も参戦した。朝倉宗滴・賀州三ヵ寺軍は一度は勝利するが本願寺軍の反撃を前に畠山軍が壊滅して加州三ヵ寺も陥落。富樫氏も加賀守護から追放された。こうして加賀も本願寺派によって征服されたのである。大小一揆と呼ばれる。富樫親子は越前の朝倉氏家臣、溝江氏がいる金津城に落ち延びた。天文元年(1532年)、細川氏や六角氏、法華宗の猛攻撃で山科本願寺が陥落して炎上したのを受けて加賀門徒が畿内へ向かう。稙泰は野々市に泰俊を派遣するが天文4年(1435年)に畿内から戻った一揆勢に敗北し越前に退去。そして金津城も囲まれて稙泰は自害した。朝倉氏は既に一揆勢と和睦していたため助けにはこなかった。見捨てられたのである。泰俊は亡命し稙泰次男の泰縄が家督を継いで17代加賀守護を名乗るも自力では何も出来なくなっており、形骸化した名ばかりに過ぎなかった。本願寺とは協調路線を進むしかなかった。後に13代将軍義晴から一字を受けて晴貞と改名する。元亀元年(1570年)、15代将軍義昭から加賀の逆賊討伐の上意を受けて織田信長と共に本願寺と戦う。しかし信長は信長包囲網との戦争に明け暮れており、援軍は見込めなかった。加賀一向一揆は大軍で富樫館を包囲し、晴貞は籠城空しく敗北。嫡男の晴友を越中に逃がして大乗寺に逃れた。しかし一揆軍により放火され伝燈寺に逃げ込む。だがここも一揆軍に放火されたため遂に自害して果てた。これが収まった後に、逃亡していた泰俊が野々市に戻って18代目加賀守護(仮)となる。しかし一揆勢を前に敗北して再び越前の金津城に逃亡。そして天正2年(1574年)に一揆軍の攻撃で金津城にて嫡男、種春、次男の天易侍者と共に戦死し名実ともに富樫氏は滅亡したのであった。

泰俊の三男、家俊のみが生き残り後藤弥右衛門と改名。その後に佐久間盛政に仕え戦功により天正9年(1581年)に押野村で300石を与えられ押野後藤家を築く。子の藤右衛門は加賀藩の十村肝煎となって明治まで続く。そして維新の後も押野村(野々村市)の村長となった。
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