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2018年05月22日03:46

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富樫館1

※富樫氏は中央政権で何かあるたびに巻き込まれているのでその前後関係も書いていると膨大な文章量となってしまいました・・・。

加賀守護として歴史にその名を残した富樫一族の祖先は陸奥国の鎮守府将軍、藤原利仁でとしている。彼は敦賀藤原氏の養子でもあり、孫の忠頼の代に加賀に居住したと伝える。

富樫氏6代当主、泰家は治承・寿永の乱の最中である寿永2年(1183年)、平氏討伐のために挙兵した木曽義仲が北陸道を進撃するのに従い、加賀国・越中国境の倶利伽羅峠で平維盛(清盛嫡男)率いる10万の大軍と対峙した。一方の義仲軍は数千〜数万であったと言う。義仲軍は深夜に奇襲を仕掛け、火のついた松明を牛に括り付けて突撃させる「火牛の計」により勝利したとされるがこの戦法は現実味が薄いともされている。しかし平家軍はここで総崩れとなり、その後も防戦できずに京へ撤退し更に西国へ落ち延びた。そして義仲は上洛を果たしたのである。しかし翌年に源頼朝の追討例を受けた義仲が滅亡し、その後に康家が加賀守護に任じられた。その後、平家を滅亡させた頼朝弟の義経が頼朝の追討例を受けて京から脱出し、北陸道を通って奥州平泉を目指した。安宅関を守備する康家は武蔵坊弁慶の読み上げる「勧進帳」に感銘を受け、山伏に扮した義経一行を本人だと知りながら情けで通過させた。この話は歌舞伎「勧進帳」で現在に至るまでその名を残した。また、布市神社にはこの時に見世物として弁慶が投げたと伝わる巨石が残されている。しかしこの件で頼朝の怒りを買い、守護職を剥奪となる。康家はその後出家した上で重純と改名し、一族で奥州平泉に渡って義経と再会した。帰国後も長命であったという。

南北朝時代、富樫氏9代当主の富樫高家は六波羅探題の一員であったが足利尊氏が建武の新政に反発して挙兵するとこれに加わり尊氏に従って全国各地を転戦。九州、多々良浜の戦いなどで功を挙げて戦後に加賀守護に任じられた。一般的には高家が初代加賀守護として認知されている。足利家の内戦となった観応の擾乱が起こっても高家は尊氏に従った。
守護所として富樫館を築城したのも高家とされている。

3代目加賀守護であった氏春の死去により、長男の長童丸が加賀守護となるが幼少のため一族の用家の補佐をうけた。近江守護の佐々木道誉はこれに乗じて婚姻関係のある斯波氏を加賀守護に付かせようとしたが室町幕府執事であった細川氏清に阻止された。しかし2代将軍義詮とも対立する事が多かった氏清は康安元年(1361年)に失脚し、道誉の陰謀であると無実を訴えるも追討軍を相手に翌年戦死した。貞治5年(1366年)、竹童丸は元服し昌家と名乗る。その後、清氏従弟の頼之と斯波義将が幕府内で抗争を始めると細川派に属していたが康歴元年(1379年)、康歴の政変で義将派のクーデターにより頼之が失脚し斯波氏が最盛期を迎える。嘉慶元年(1387年)に昌家が死去すると弟の満家が家督を継ぐもこの隙を狙って義将が加賀守護職を剥奪し、弟の義種を加賀守護とした。この斯波氏分家で加賀守護を継いだ一族は大野家を名乗った。


応永21年(1414年)、義種の子、満種は4代将軍足利義持の忌避に触れて加賀守護を剥奪され大野家は没落した。そして義持の側近であった富樫満成が南加賀守護、兄の満春が北加賀守護に任じられ27ぶりに富樫氏が加賀守護に復帰する事となる。富樫氏の根回しや讒言であった事は想像に難くない。しかし一国守護となれなかったのは斯波氏と同じく幕府三管領で対立関係にあった細川氏と畠山氏の存在がある。細川氏が満成を、畠山氏が満春を支援して代理戦争の形になっていたのだ。そしてこの対立は後々まで尾を引く事になる。

応永23年(1416年)、前関東管領であった上杉禅秀が鎌倉公方、足利持氏に反乱する上杉禅秀の乱が発生する。幕府は諸大名を動員し翌年には禅秀を始め主だった者が自害して終戦するが、これと同時に義持の異母弟であった義嗣が突如として出奔する。義嗣は父である3代将軍義満の寵愛深く兄弟の仲は以前から犬猿であった。反乱に加担した疑いありとして義持の命で義嗣を探し出した満成は京都内で捕えて尋問を行ったがその報告書が政権を揺るがすものだった。今回の上杉禅秀の乱は義嗣を担いだクーデターであり、これに現管領の細川満元、元管領の斯波義教をはじめ畠山満則、赤松義則、土岐康政、山名時煕ら有力守護大名に加え、公家の山科教高、日野持光が加担していたと言うものであった。名の上がった者たちは守護解任や謹慎・配流の刑となった。翌年、義持は満成に命じて義嗣を処刑した。

しかし同年内に今度は満成が追放となった。理由は義嗣をそそのかして謀反を促したが露見しかけたために義持に進言して義嗣を抹殺した事。さらに義嗣の妾であった林歌局と不義密通していた容疑が浮上したためである。林歌局欲しさに義嗣を消したとされたのだ。後に不義密通の件は満成と同じ義持側近の赤松持貞にも疑いがかけられた。これらは先のクーデターで失脚した者たちの逆襲ともされた。満成は高野山に逃亡したが応永26年(1419年)、畠山満家の兵に討伐され暗殺された。どこまでが真実であったかは定かでない。
しかしこの件で満春が南北合わせた加賀守護となり、再び富樫氏が一国を統治したのであった。

満春が応永34年(1427年)に死去すると義持の「持」を譲り受けた持春が6代目加賀守護となる。しかし21歳の若さで嗣子なく死去したため義持の奉公衆であった弟、教家が加賀守護と家督を継いだ。

嘉吉元年(1441年)、教家は室町幕府6代将軍、足利義教の恐怖政治の中で突如として加賀守護を解任された。教家は流浪となり、僧となっていた弟が還俗して泰高を名乗り守護職を継いだ。しかしそれから6日後に嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺される。繰り返す諸大名の改易や比叡山を弾圧して集団焼身自殺に追い込むなどした恐怖政治の末路であった。
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