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2018年09月22日08:48

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キリスト教105〜イギリスで産業革命が始まる

●イギリスで産業革命が始まる

 次に、イギリスにおける産業革命について述べる。
 西欧で封建制から資本主義への移行が最も早く進んだのがイギリスである。16〜17世紀の西欧で、最大の産業は毛織物業だった。西欧諸国で人々の購買力が増大したのみならず、多くのヨーロッパ人が移住したアメリカ大陸などにも市場が拡大したために、毛織物の生産規模が急激に拡大した。毛織物産業が急成長し、羊毛価格が高騰した。ヨーロッパを代表する羊毛の産地だったイギリスでは、地主たちが牧羊地を広げるエンクロージャー(囲い込み)を強行し、貧しい農民たちの手から土地が取り上げられた。富裕なキリスト教が貧困なキリスト教徒から収奪を行い、階級分化が進んだ。エンクロージャーで富を蓄えた地主層は、17世紀になると政治的な発言力を強めていった。
 イギリス農村部では、自前の羊毛で毛織物を生産するようになり、毛織物を大量に生産するマニュファクチュア(工場制手工業)が発達した。生産した毛織物をアメリカ大陸に輸出した。輸出された毛織物は、そこで新大陸の銀と交換された。これによってイギリス社会に貨幣が流通し、商品交換が一般的になった。
 この過程で、農村社会に大きな社会的変化が起こった。伝統的な共同体が解体され、中間生産者層が資本家と賃金労働者に両極分化していったのである。産業資本が発生し、資本主義的な生産関係が生まれた。そのため、イギリスでは資本の本源的蓄積が自生的かつ典型的に行われたといわれる。
 17世紀半ば、イギリスでは、薄地で軽やかな織物を着る流行が始まった。そこに1660年ごろからインド木綿が流れ込んできた。17世紀末までにインド木綿は、他の衣料と比べ物にならない人気を獲得した。着心地よく、美しく、しかも安かった。
 イギリスに大量に輸入されたインド産キャラコは、伝統産業、毛織物工業を脅かした。そのため、1700年に議会はイギリス国内でのキャラコ使用の禁止を決定した。 しかし、輸入を禁止したところで、人々は快適な衣料を欲する。外国製品に対抗するには、国内の製造業の発達を待つしかない。イギリス綿工業は、アジアからの外圧に対抗する輸入代替産業として勃興した。目標は、インド木綿に匹敵する良質・安価の木綿を自力で生産することだった。
 イギリス国内で生産されたキャラコが海外市場で販売されるようになると、急速に販路を拡大した。品質が優れていたからである。原料の確保のため、イギリス人は西インド諸島のプランテーションで大量に綿花を生産させた。さらにアメリカから綿花を輸入するようになった。これには、奴隷貿易が関わっていた。その点は次の項目で述べる。
 綿布需要は急速に伸び、1750年代以降になると生産が追いつかない状態になった。そこで行われたのが、機械化である。イギリスでは、毛織物工業でマニュファクチュアが発達し、技術的分業が進んでいた。分業化された生産は、工程の一部を機械に置き換えることができる。機械化は1760年代に、まず毛織物工業で始まった。機械化はまもなく、新興の綿工業で急速に進んだ。まさに革命的な変化だった。この機械化の過程が、イギリス産業革命にほかならない。
 毛織物工業では、ジョン・ケイが考案した飛び梭(ひ)が実用化されていた。飛び梭が綿工業で使用されるようになると、織布能率が倍加して、綿糸不足が深刻になった。この隘路を解決するために、新技術の開発が求められた。
 1769年にアークライトの水力紡績機が、1770年にハーグリーブスのジェニー紡績機が、特許を受けた。1779年には、クロンプトンのミュール紡績機が完成した。こうした紡績機の開発の結果、生産性が飛躍的に上昇した。製品価格が急速に下落し、良質な綿糸の紡績が可能になった。その結果、イギリス木綿は、1802年にはイギリスの輸出高において毛織物を抜き去った。
イギリス綿工業は、ほぼ1世紀の年月をかけてインド木綿の模倣に成功した。輸入代替化に成功したイギリスは、今度はもとの供給国インドに輸出し始めた。イギリス木綿は、1820年代前後から、怒涛のごとくインドに流入した。インドがイギリスに対してもっていた生産の比較優位がここに初めて逆転した。

 次回に続く。
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