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2018年05月22日09:36

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キリスト教49〜ユダヤ教の改革と発展

●ユダヤ教の改革と発展

 預言者の時代の途中である紀元前586年に、ユダ王国はネブカネドザル2世の新バビロニア王国に滅ぼされた。エルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人はバビロンに捕虜として連行された。
バビロン捕囚は、約半世紀続いた。圧倒的な政治力・経済力を持つ異郷の地での生活を強いられた。王国はなく、神殿もなかった。この苦難の体験は、ユダヤ人の信仰を堅固なものとした。そこが、ユダヤ民族の非凡なところである。国は滅んでも、宗教的・民族的な共同体として生き続けるための改革が行われた。神ヤーウェとの契約を確認し直し、民族の歴史を振り返って、ユダヤ民族のアイデンティティを確立した。神ヤーウェは、この世界を創造した神であり、唯一神であると位置づけられ、創世記の天地創造の物語が記述された。この時期の代表的な預言者が、先に触れた第2イザヤである。
 新バビロニア王国は、アケメネス朝ペルシャに滅ぼされた。紀元前538年にキュロス2世が捕囚民の解放令を発布すると、ユダヤ人の一部はユダヤの地に帰還した。ここでユダヤとは、イスラエル12部族の一つユダ族の居住地の名称である。それが民族全体を表す語となった。
 帰還後、ユダヤ王朝の復興は許されず、ユダヤ人は王国の再建を断念した。捕囚期に改革・強化されたヤーウェ信仰のもとに、エルサレム神殿を再建した。これを第2神殿と呼ぶ。この神殿は、紀元後70年にローマ人によって破壊されることになるが、それまでユダヤ人はエルサレム神殿を中心として結束し、律法の遵守を実行した。
 預言者の時代に、ユダヤ人は、律法に基づく倫理的応報思想を確立し、以後、禁欲的で道徳的な生活に努めた。その生活態度は、異民族に対する怨恨の感情と結びついていた。それが、ユダヤ人の顕著な特徴の一つである。ユダヤ人が異民族支配下に置かれた捕囚期以降に成立した聖書の『詩篇』には、支配民族への怨恨が強く表れている。
 ユダヤ人は、次のように考えた。暴虐な支配者は、神を恐れぬ不道徳な生活を送っているから、やがて神の裁きを受けて滅ぼされるに違いない。われわれユダヤ人は、神の命令に背いたかつての罪を悔い改め、律法を守る生活を送っている。それゆえ、神は、われらの祈りと願いに応えて、必ず救ってくださる、と。この思いの底には、復讐心が脈打っている。
 復讐心に裏付けられた禁欲的道徳意識は、自らにさらに厳格な戒律を課すことによって強められた。そのような改革を進めたのが、紀元前5世紀中葉の律法学者エズラである。エズラは、バビロニアからモーセの律法の巻物を携えてパレスチナに来た。成分律法は、その時代までに変更不可能な啓典として成立していた。エズラは、それを変化する現実に適用する方法を教えた。エズラ以後、ユダヤ人は、成文律法より広範囲な権威に基づいて決定された法規にも、成文律法と同等の神聖な権威を認めるようになった。これを口伝律法という。広義の律法は、この口伝によるものを含む。
 エズラ以後、約1000年の間に、口伝律法は発展・集積された。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者は、ラビと尊称された。そこで、この時代に形成されたユダヤ教を「ラビのユダヤ教」と呼ぶ。中世以後、現代に至るユダヤ教は、「ラビのユダヤ教」が確立した教義に基づく。
 「ラビのユダヤ教」の時代は、ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代だった。紀元前4世紀末、ギリシャのアレクサンドロス大王の東征によってヘレニズム化の波が、ユダヤ人を襲った。その政治的・文化的衝撃は大きく、ユダヤ人共同体は、存立を根底から揺るがされた。大王の死後、その帝国はマケドニア、エジプト、シリアの三つの王朝に分裂し、パレスチナはエジプトの支配下に入り、後にシリアの支配下に移った。紀元前2世紀中葉、ユダヤ人共同体を征服したセレウコス朝シリアの王アンティオコス4世は、ユダヤ教を禁止して神殿をゼウス神殿と呼ばせるなど、ヘレニズム化政策を強行した。ユダヤ人の中にはヘレニズム文化に妥協しようとする態度と、それを排除してヘブライズムの純粋性を保とうとする態度が現れた。アンティオコス4世が宗教的迫害を行うと、紀元前167年、ユダヤ人は信仰を守るために、マカベアスのユダを中心として反乱を起こした。これをマカバイ戦争という。ユダヤ人は長い苦闘の末、自治を獲得し、ハスモン王朝によるユダヤ教国家を建設した。
 その後も激動は続いた。地中海地域を支配するようになったローマ帝国が、最大の危機をもたらしたのである。

 次回に続く。

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