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2016年10月14日09:37

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人権364〜人権の基礎づけ

 拙稿「人権ーーその起源と目標」は、第4部「人権の目標と新しい人間観」の第12章「人権の理論と新しい人間観」に入る。全体の最終章となる。

●人権の基礎づけ

 第10章及び第11章で人権と正義について考察した。本章では、その考察に基づいて人権の基礎づけ、定義、内容、実践について書き、人権の目標と新しい人間観について述べる。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion03i-4.htm
 人権の本質は、普遍的・生得的な権利ではなく、歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利である。普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、発達する「人間的な権利」である。人権に関する思想が発達すれば、その段階において新たな権利が人権のリストに加わり、それもまた人権と呼ばれる。そのようにして、人権は発達してきた。
 人権は、17世紀以来、ロック、ルソー、カント、J・S・ミル等によって、それを担う人間の問題とともに考察されてきた。20世紀以降の世界的な人権の発達においても、彼らの思想は影響を与え続けている。人権は社会的権利として主張された要求が、特定の国家で権利として認められ、法に規定されて法的権利になることによって、歴史的・社会的・文化的に発達してきたものである。この人権の発達は、各国で進むとともに国際的にも展開されてきた。
 今日では、こうした歴史を踏まえ、権利としての根拠があいまいなまま、次々に新しい権利を主張し、それも人権だとして実現を要求するという傾向が目立っている。人権の確保・拡大は、国際社会における政治的・社会的運動の目的となっており、様々な新たな権利の要求が出されている。人権に関する要求は、議論の結果、一部は条約に盛り込まれたり、逆に権利と認められずに斥けられたり、一部の国でのみ国内法で法的権利とされたりする。
 人権というラベルを貼り付ければ、実現されなければならない権利のような響きを持ち、権利を主張する者と反論する者との間で、争いが生じる。何が人権なのか、どこまでが人権なのか、明確な基準の無い中で、新たな主張とそれに対する賛否の議論が繰り広げられている。人権発達史の第3段階の権利が各種主張され、それらをめぐって活発な議論がされている。普遍的・生得的権利という観念が根強く存続しながら、その権利について諸説紛々である状態そのものが、普遍的でも生得的でもない権利を人権と呼んでいることを示すものである。
 人権については、基礎づけが必要だという意見と必要ないという意見がある。人権の基礎づけとは、根拠を示して権利を正当化することである。基礎づけが必要だという意見には、人権を正当化する単一の根拠を目指すという意見と、複数の根拠があってよいという意見がある。前者は、思想的・哲学的・宗教的な原理を根拠とするものが多い。後者には、世界人権宣言の条文に盛られた複数の内容を根拠とする考え方がある。これに対し、基礎づけは必要なしとする意見のうちには、世界人権宣言・人権規約・人権条約等で文化・宗教・思想等を超えた合意のもとに権利の保障がされれば、人権を正当化する根拠は必要ないというプラグマティックな考え方がある。また後期ロールズの正義論におけるように包括的な宗教的・哲学的・道徳的教説の議論を避け、人格・価値・能力・資格について主張せず、否定もせずに、「重なり合う合意」を作るという政治的自由主義の立場もある。私は、基礎づけが必要という意見であり、人権を基礎づけるには人間に関する考察が必要だという考えである。

●基礎づけに関する正義論者の見解

 まず代表的な正義論者のうち、人権の基礎づけについて最も特徴的な見解を示したロールズとミラーの見解を再度確認しておこう。ロールズは、主に人権ではなく正義を論じた。だが、正義に関する基礎づけの要否と人権に関する要否には、共通する面がある。そこで、彼の人権の基礎づけに関わる部分について再度、記す。
 ロールズは、前期の『正義論』では、カント的な自由で平等な道徳的人格を主体とし、カントにならって正義論を道徳哲学によって基礎づけようとする姿勢を示していた。だが、次第にカントの道徳哲学から離れていき、後期の『政治的自由主義』では、政治の分野に限って社会正義を構想する姿勢に変わった。それゆえ、前期ロールズは、道徳哲学による基礎づけ派、後期ロールズは、政治的自由主義による非基礎づけ派と言える。後期ローズの思想は、ミラーの挙げる人権正当化の三つの戦略のうち、第二の「重なり合う合意の探求」戦略の大元になっている。
 後期ロールズは、自分の考える自由主義は、「そもそも人格の概念に基づいていない」とし、人権は「人間本性に関する、いかなる特定の宗教的・哲学的な包括的教説に依拠するものでもない」とする。「諸国民衆の法」は、「人間は道徳的人格である」とか、「人間は神の前では同じ価値を持つ」といったことを主張しない。また「人間には一定の道徳的能力や知的能力が備わっており、それゆえに人権を享受する資格が与えられる」などと主張するものでもない。その理由は、主張すれば、欧米以外の人々が拒絶するような宗教的・哲学的・道徳的教説が前提に含まれてしまうからだという。ロールズは、人格・価値・能力・資格について主張せず、また否定もしないという姿勢を取る。その姿勢のゆえに、人権の担い手である人間の人格に関する考察を行わない。そのため、ロールズは、人間が相互に権利を承認し合う能力を持つという事実を重視していない。
 世界人権宣言及び国際人権規約は、今日の国際法及び国際人権法の重要な柱となっている。これらが制定された時代には、国際的正義の基礎理論は存在しなかった。だが、国際的な討議を行うことで、人権に関する合意が重ねられてきた。人権に関する宣言がされ、個別的な条約や地域的な条約が結ばれてきた。それが実際に行われてきたのは、文明や文化の違いを超えて、人権に関して一定の共通認識を持つことが可能だったからと考えられる。共通認識を形成できなければ、異なった文明・文化を持つ国家の間で、人権という概念を共有することもできない。それゆえ、私は、ロールズの姿勢では、今日世界に普及している人権の概念について深く考察することができないと思う。「重なり合う合意」は、これから初めて、政治的分野に限って求めていくものではない。半世紀以上にわたって、歴史的に合意が積み重ねられてきている。また諸文明・諸文化を横断して積み重ねられてきている。その合意はなぜ可能なのかを問わねば、人権を正当化することはできない。
 ミラーの場合は、人権をグローバル・ミニマムとしての基本的人権に限定する。人権の正当化に用いられてきた戦略を三つに分類して比較・検討する。第一の戦略、すなわち宣言・協定・国際法・外交政策等で実施されてきたことに直接に目を向け、そうした実践から人権理論を抽出すべきだとする「実践に基づく戦略」と、第二の戦略、すなわち主な世界宗教や重要な非宗教的世界観が人権の共通の一覧を支持することを示すことを通じて、人権の多様な基礎を発見できるとする「重なり合う合意の探求」戦略は、ともに人権を正当化することができないとして、斥ける。そのうえで、第三の「人道主義的戦略」を擁護する。
 人道主義的戦略は、「人間の基本的なニーズを見出そうとするもの」であり、「宗教的もしくは世俗的世界観がどうであれ、どこに暮らす人々にとっても道徳的に説得力があると認識されるに違いない」とミラーは述べる。この戦略は、「人権の基礎として役立ち得る人類の普遍的特徴に依拠し、人権を確定し、正当化するもの」であり、人権は「人間の基本的ニーズの充足に必要な条件を整えるということを示すことによって正当化される」と言う。
 また、「人権は一種の根源的道徳であるーーすなわち他の道徳的要求は弱い義務を課すか、あるいはいかなる義務を課さないかであるが、人権の保障は道徳的命令であるーーと想定されるので、人権は人間的な生命・生活の本質的特徴を参照することによって正当化されるべきである」と述べる。基本的ニーズは「道徳的切迫性」を有しているとし、「人権とは全人類に共通の基本的ニーズという観念を通じて最もよく理解され正当化される」とミラーは主張している。
 この発言は人権の根拠に人類普遍的な道徳を想定するものであり、またその道徳的命令はカントの定言命法のようなものと理解される。この点で、ミラーの思想はカント主義的であり、前期ロールズに通じる点がある。彼のいう人道主義的義務は、カント主義的な普遍的義務であり、「全人類に共通の基本的ニーズ」を実現することが、その普遍的義務の実行であり、それは「根源的道徳」に基づく「命令」であると理解される。
 人権は、基本的ニーズの充足に必要な条件を整えることによって正当化されるというミラーの戦略は、人権の正当化の方法として注目されるものである。だが、私は、基本的ニーズを検討するにしても、人間とは何かという問いを掘り下げていかないと、単に生物的に生存するのか、文化的に生存するのかということすら明らかにできないと思う。まして、心霊的存在としての側面までを考慮することはできない。基本的ニーズは、外的な条件を示すのみであり、それを必要とする主体としての人間の考察が必要である。
 人権の基礎づけについてロールズとミラーの見解を再度確認したが、二人ともこの課題については、十分な検討を行えていない。

 次回に続く。
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