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2017年05月25日01:27

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『神功皇后』は「皇位」を求められなかった!

女性天皇に賛成68% 毎日調査
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4587850

「大日本の歌」
http://m.youtube.com/watch?sns=gr&v=dJXqYQ43HdY
[「建國」神話と「皇國」史観の要諦]
「『日本書紀』巻第九の「神功皇后九年の条」に,神功皇后が朝鮮半島に赴かれた時,新羅の王が「吾聞く,東に神の國(かみのくに)有り.日本と謂ふ.亦聖王(ひじりのきみ)有り.天皇と謂ふ.必ず其の國の神兵(みいくさ)ならむ.豈兵を擧げて拒(ふせ)ぐべけむや」と述べ,白旗を掲げて降伏したと記されてゐる.新羅が降伏したのを聞いた高麗・百済両國の王も,日本軍の陣営の外に来て,「今より以後(のち)は,永く西蕃(にしのとなり)と稻(い)ひつつ,朝貢(みつきたてまつる)絶(た)たじ」と述べたと記されてゐる.
この記述にはわが國においてのみならず,隣国朝鮮においても「わが國は神の國であり,天皇は聖なる君主であらせられ,日本の兵は神兵である」といふ意識があったことが明確に示されてゐる」(「戦中派」第471号)
「日本とはどういう国柄か,日本人のアイデンティティは何かを考えるとき,それらを記紀の時代や武士の時代,江戸時代に,過去の日本人がどのように考えてきたかを踏まえて形成された歴史観にすぎない.もちろん,実証やテキスト・クリティックを踏まえたものであって,その最も近い淵源は江戸時代の儒学者,国学者,水戸学派などの考えが合流した幕末の歴史観であるが,昭和戦前期の歴史観もそれを改めて言い直したものであって,決して奇矯な特別なものではない.
したがって,それは幕末の尊皇攘夷の背景にもあったもので,そこから何を引き出すかは時代の要請次第なのである.「尊皇攘夷」は政治的当為そのものだから歴史観ではないが,日本の国柄を考えつづけて江戸時代に形成された歴史観から可能になったものである.尊皇攘夷とは,西洋列強の圧迫に対してそれが尋常一様の危機ではなく,いかにして日本が独立を保持していけるのか,そのための政治体制をどのように組み直していったらよいのかという当為を一言で言い切ったものである.尊皇とは,日本は天皇を戴く国であり,君民は一体であることを政治的当為として表明したものであり,攘夷は迫りくる対外的危機に対してどう対処すべきかを表明したものである.
ただ,そのことがわかるためには攘夷に大攘夷と小攘夷があることを言っておかなければならない」(『皇国史観と尊皇攘夷』小林路義教授「異文化コミュニケーション」)
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