■悲しい恋の結末
しかしその後、このカップル
の関係は時代の荒波
に揉まれることになる。
ペリー来航、日米修好通商条約をめぐる朝廷と幕府の対立、安政の大獄ーーと日本は大きく動いていきます。
そして『桜田門外の変』(1860年3月24日)によって大老
井伊直弼という支柱を失った幕府は「公武合体」を打ち出すとともに、まだ独身で若かった十四代将軍
徳川家茂に皇女和宮の降嫁
(皇女が皇族以外の男性に嫁ぐこと)を願い出たのであります。
これに対し当初、時の関白・近衛忠熈は
「和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約
している」こと、
「その婚約
には天皇の勅許があるため、降嫁は受けられない
」と主張したが、幕府のゴリ押しもあって最終的に和宮の降嫁
が決まるのでした。
実態は天皇が公武合体派の岩倉具視などの意見を受け入れ、同時に「攘夷実行」を幕府に約束させるためでもあったが、理屈としては「有栖川宮熾仁親王と和宮の婚約
が正式なものではなかった(納采の義を執り行っていない)」、そして『和宮が天皇の御意志に従う』とされました。
続きます
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