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2016年05月09日19:21

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陛下が望む仕事だけでいいんだ。昭和天皇の涙を載せました

拝謁などは、皇太子に全て任せていい。

例え、アメリカの大統領が来てもだ。

陛下は、我々国民が困窮の時に膝を屈し励ましてくれた。

他の政治家は、ブルーシートに土足で上がってくるのに、陛下は、靴を脱ぎ、目線を合わせ頑張ってくださいと励ましてくれた。

福島に慰問したときは、福島から避難した子供達が、放射能が移るという風評を聞き、自ら雨に打たれられた。

陛下に、あの時に頑張れって言われて頑張って何とか立ち直れましたと報告できるまで生きていてもらわなきゃ困るんだ。

昭和天皇の話です。

昭和24年5月。 

九州への御巡幸でのこと。  

この日、陛下は、たってのご希望で、 

佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に御巡幸されています。  

このお寺には洗心寮という引き揚げ孤児の寮がありましたが、 

戦災孤児や引き揚げ者の境遇を気にかけておられた昭和天皇は、 

ここを佐賀県での最初の御巡幸先にされたのです。 

その洗心寮で見られたのが次のような光景でした。  

孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、 

部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。 

ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、 

子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしない。 

昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、 

みな、呆然と黙って立っている。 

すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。 

頭をぐっとおさげになり、 

腰をかがめて挨拶され、 

満面に笑みをたたえていらっしゃる。  それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。

そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。  

「どこから?」 

「満州から帰りました」 


「北朝鮮から帰りました」 

すると陛下は、この子供らに  

「ああ、そう」 

とにこやかにお応えになる。 

そして、  

「おいくつ?」 

「七つです」 

「五つです」 

と子供達が答える。 

すると陛下は、子供達ひとりひとりに まるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、  

「立派にね、元気にね」 

とおっしゃる。  

陛下のお言葉は短いのだけれど、 その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。 



この「立派にね、元気にね」の言葉には、  

「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、 

フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、 

お父さん、お母さんがいないことは、 

さぞかし淋しかろう。悲しかろう。 

けれど今、こうして寮で立派に 日本人として育ててもらっていることは、 

たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。 

これからは、今までの辛かったことや 悲しかったことを忘れずに、 

立派な日本人になっておくれ。 

元気で大きくなってくれることを 私は心から願っているよ」  

というお心が込められているのです。 

そしてそのお心が、短い言葉で、 

ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。  

陛下が次の部屋にお移りになると、 

子供達の口から  

「さようなら、さようなら」 

とごく自然に声がでるのです。 

すると子供達の声を聞いた陛下が、 

次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、 


その子に  

「さようならね、さようならね」 

と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。   

こうして各お部屋を回られた陛下は、 

一番最後に禅定の間までお越しになられます。  

この部屋の前で足を停められた陛下は、 突然、直立不動の姿勢をとられ、 

そのまま身じろぎもせずに、 

ある一点を見つめられます。  

それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、 

おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、 

この禅定の間では、うってかわって、 

きびしいお顔をなされた。 

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、 

沖森知事も、県警本部長も、 

何事があったのかと顔を見合わせます。  

重苦しい時間が流れる。  

ややしばらくして、 

陛下がこの部屋でお待ち申していた女の子に、近づかれました。 

そしてやさしいというより、 

静かなお声で、引き込まれるように  

「お父さん。お母さん」 

とお尋ねになったのです。 

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、 

何事があったのかわからない。 

陛下の目は、一点を見つめています。  

そこには、女の子の手には、 

二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。 

陛下は、その二つの位牌が 

「お父さん?お母さん?」

とお尋ねになったのです。  

女の子が答えます。  

「はい。これは父と母の位牌です」 

これを聞かれた陛下は、 

はっきりと大きくうなずかれ、  

「どこで?」 

とお尋ねになります。  

「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。 

母は引揚途中で病のために亡くなりました」 

この子は、よどむことなく答えました。 
すると陛下は  

「おひとりで?」 

とお尋ねになる。 

父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。  

「いいえ、奉天からコロ島までは 日本のおじさん、おばさんと一緒でした。 

船に乗ったら船のおじさんたちが 親切にしてくださいました。 

佐世保の引揚援護局には、 ここの先生が迎えにきてくださいました」  

この子が、そう答えている間、 

陛下はじっとこの子をご覧になりながら、 

何度もお頷かれました。 

そしてこの子の言葉が終わると、陛下は  
「お淋しい」 

と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらた。 

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、 

この子は口元を引き締め  

「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子ですから」 

陛下は少し驚いて女の子の目を見つめたが、 

女の子はひるまずに続けた。  

「仏の子は、亡くなったお父さんとも、 お母さんとも、お浄土に行ったら、 
きっとまたあうことができるのです。 

お父さんに会いたいと思うとき、 

お母さんに会いたいと思うとき、 

私は御仏さまの前に座ります。 

そしてそっとお父さんの名前を呼びます。 

そっとお母さんの名前を呼びます。 

するとお父さんもお母さんも、 

私のそばにやってきて、 

私を抱いてくれます。

だから、 

私は淋しいことはありません。 

私は仏の子供です」  

こう申し上げたとき、 

陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。 

この子も、じっと陛下を見上げています。 

陛下とこの子の間に、 

何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。  

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられます。  

部屋に入られた陛下は、 

右の御手に持たれていたお帽子を、 

左手に持ちかえられ、 
右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。 

そして陛下は、  

「仏の子はお幸せね。 

これからも立派に育ってくださいね」 

と言葉をかけられた。  

そのとき、陛下のお目から、 

ハタハタと大粒の涙が一つ、二つ、 

お眼鏡を通して畳の上にこぼれ落ちた。  
すると、ふいに女の子は、小さな声で  

「お父さん?」 

と呼んだそうです。  

これを聞いた陛下は、 

深くおうなずきになられた。  

その様子を眺めていた周囲の者は、 

皆、言葉をなくして顔を覆った。 

東京から随行してきていた新聞記者も、 

肩をふるわせて泣いていた。  

もはや陛下はあふれる涙を隠そうともしない。 

陛下にはこらえられぬ事のない 剛の風を備えた武人の一面もあった。 

が、この時ばかりは、 ついにこらえるのをあきらめてしまったようだった。  

寮を去るまで付いてきてしまった大勢の子どもたちに見送られ、 

陛下は因通寺を後にした。   

皇居にお帰りになられた陛下は、 

この時のことをこう詠まれました。   

「みほとけの教へまもりてすくすくと 生い育つべき子らに幸あれ」  

この御製は因通寺の梵鐘に刻まれているそうです。 

■両陛下の公務削減=面会など年約10件―傘寿超え、年齢配慮・宮内庁
(時事通信社 - 05月09日 18:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3983476
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