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2018年06月20日00:02

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6月20日の日記

今日の出来事:1180年−以仁王の挙兵:宇治平等院の戦いで源頼政と以仁王が敗死、1560年−長浜表の戦い、1562年−教興寺の戦い、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が多賀城に到着、1868年−戊辰戦争:第三次白河攻防戦、1869年−箱館戊辰戦争:箱館総攻撃(土方歳三戦死)

今日は、以仁王の挙兵:宇治平等院の戦いです。以仁王と源頼政が謀って「以仁王の令旨」を発し、源行家が諸国を廻りました。しかし、計画は露見しました。密告したのは熊野別当・湛増でした。令旨によって熊野の勢力が二つに割れて争乱に発展したため、湛増が平氏に以仁王の謀反を注進したのでした。平氏は以仁王を臣籍降下させ「源以光」と改めた上で、土佐国への配流を決定しました。検非違使別当・平時忠は、300余騎を率いて以仁王の三条高倉邸に向かいました。この中に源頼政の次男・兼綱が加わっていた事から、平氏は源頼政の関与は察知していませんでした。源仲綱から知らせを受けた以仁王は女装して邸を脱出、御所では長谷部信連が検非違使と戦って時間を稼ぎ、以仁王は園城寺へ逃れました。平氏は園城寺に以仁王の引き渡しを求めましたが、園城寺大衆はこれを拒否しました。以仁王は興福寺と延暦寺にも協力を呼びかけました。平頼盛、教盛、経盛(以上、清盛の弟)、知盛、重衡(以上、清盛の子)、維盛、資盛、清経(以上、重盛の子)、そして源頼政を大将とする園城寺攻撃の編成が定められました。源頼政の関与は露見しませんでしたが、その夜に源頼政は自邸を焼いて50余騎を率いて園城寺に入り、以仁王と合流しました。源頼政と以仁王は1000余騎を率いて園城寺を脱出し、南都興福寺へ向かいましたが途中、宇治平等院で休息しました。平知盛、重衡を大将とする平氏は2万8000騎でこれを追いました。宇治川を挟んで両軍は対峙しました。源頼政の軍は宇治橋の橋板を落として待ち構え、川を挟んでの矢戦となりました。攻めあぐねた平氏の家人・藤原忠清は、平知盛に河内路への迂回を進言しました。下野国の武士・足利俊綱・忠綱父子はこれに反対し、「騎馬武者の馬筏で堤防を作れば渡河は可能」と主張しました。17歳の足利忠綱が宇治川の急流に馬を乗り入れると、坂東武者300余騎がこれに続きました。渡河を許したため、源頼政は宇治橋を捨てて平等院まで退き、以仁王を逃そうと防戦しました。源頼政方は次第に人数が減り、源兼綱は討たれ、源仲綱は重傷を負い自害、源宗綱も自害、源仲家、源仲光も討死しました。源頼政はもはやこれまでと念仏をとなえ、渡辺唱の介錯で腹を切りました。以仁王は30騎に守られて辛うじて平等院から脱出しましたが、藤原景高の軍勢に追いつかれ、山城国相楽郡光明山鳥居の前で、敵の矢に当たって落馬したところを討ち取られました。以仁王と源頼政の挙兵は短期間で失敗しましたが、その影響は大きく、以仁王の令旨を奉じた源頼朝や木曾義仲、甲斐源氏、近江源氏などが各地で蜂起し、「治承・寿永の乱(源平合戦)」の幕を開ける事になります。八条院の御所にいた以仁王の子供たちは、平頼盛が連行して出家させました。そのうちの一人が北陸に逃れて木曾義仲に助けられます。木曾義仲はその皇子を「北陸宮」と名付けて、上洛時にこれを押し立てます。源頼朝は関東支配の大義名分として以仁王の「令旨」を掲げ続けます。

次に、長浜表の戦いです。長浜表の戦いは、土佐の長宗我部氏と本山氏の間で行われた合戦です。長宗我部元親が初陣を飾った戦いです。「応仁の乱」後、守護・細川氏による統治体制が弱まった土佐では「七雄(本山氏・吉良氏・安芸氏・津野氏・香宗我部氏・大平氏・長宗我部氏)」と呼ばれる小領主が台頭し、割拠しました。その中で細川家の有力被官・長宗我部氏が勢力を伸ばしました。当主・長宗我部文兼は戦乱を逃れるために上方から下ってきた一条教房を国司に迎え、一条氏を盟主とする国人の共同体を成す事で、土佐国内は安定しました。名門・一条氏の威光を得た長宗我部氏は、その後数代に渡って発言力を強めました。長宗我部国親の父・兼序は積極的に領国の統治・勢力拡大にあたりました。土佐守護・細川政元が暗殺され、再び情勢が不安定に陥った「永正の錯乱」により、国人衆の不満は爆発し、本山氏を中心に大平氏、吉良氏、山田氏などの反長宗我部連合軍が興りました。長宗我部兼序はこれを迎え撃って善戦しましたが、最後は居城・岡豊城に追い詰められて自害しました。長宗我部兼序の嫡男・国親は一条房家を頼って落ち延びました。これにより、細川氏の影響力が事実上消滅し、土佐は諸氏が武力を以て争う「戦国時代」へと突入しました。一条氏の庇護を受けた長宗我部国親は、1518年に旧領・岡豊への復帰を果たしました。長宗我部国親は、吉田孝頼らの後見で長宗我部家の復権に努め、山田氏、香宗我部氏、吉良氏らを次々に併呑して勢力を拡大し、「一領具足」を考案・導入して富国強兵を推し進めました。一方で、土佐国内で最大の実力者となっていた本山氏の当主・本山茂宗の嫡男・茂辰に娘をに嫁がせて縁戚関係を結び、雌伏の時を過ごしました。この時ぶは「七雄」のうち、生き残ったのは長宗我部氏と本山氏、安芸氏のみとなっていました。本山茂宗が死去すると、長宗我部国親は仇敵・本山氏への圧力を強めました。これに対して本山茂宗の跡を継いだ茂辰は、種崎城に船で輸送されていた長宗我部方の兵糧を、浦戸湾で配下である潮江の住民に略奪させるなどして報復に乗り出しました。長宗我部国親は本山領への侵攻を開始しましたが、前線にある長浜城(高知市)の守りが堅く、力押しでの攻略が容易でありませんでした。しかし、城門が経年により腐朽し始めていたため、本山茂辰は長浜城下から土佐の名工・福富右馬丞を雇い入れて門の建て替えを命じました。この報を入手した長宗我部国親は密かに福富右馬丞に使者を送り、破格の条件で召抱える事を約束し、大人数で押せば簡単に門が開くように作る事を依頼しました。この誘いに乗った福富右馬丞は門に仕掛けを施しました。1560年6月20日、長宗我部国親は種崎城から長浜城に夜襲を仕掛けました。こうして、長宗我部方が容易に城門を突破すると、城兵はほぼ無抵抗で城を明け渡すと本山氏の本拠地・本山城に集結しました。翌21日朝、長宗我部軍は長浜城から南の雪渓寺に出陣しました。一方、本山軍はその西の日出野に陣を構えました。午前10時頃から両軍は激突しました。戸ノ本の戦い:当初は数で勝る本山軍が優位に戦いを進めましたが、一刻にわたる乱戦の末に長宗我部軍が本山軍を押し返し、本山茂辰は浦戸城へ退きました。追撃する長宗我部軍は、南北の海岸線に船を配置して浦戸城を封鎖し、陸にも柵を築いて包囲をしました。しかし、長宗我部国親が急病を発したため、数日後に兵を引きました。長宗我部国親の嫡男・元親は、この「戸ノ本の戦い」が22歳での遅い初陣となりました。周囲に「姫若子」と言われるほど虚弱で、出陣前に家臣・秦泉寺豊後から槍の使い方の指導を受けるという有様でした。しかし、いざ戦闘が開始されると長宗我部元親は50騎を率いて70余の首を挙げ、自らも騎馬武者を2人討ち取るという勇猛果敢な戦いを見せました。さらに長宗我部元親は勝ち戦の余勢を駆り、父・国親らの制止を振り切って本山方の支城・潮江城を無人と踏んで突入しました。その通りに全くのもぬけの殻となっていた城を、難なく奪取しました。この別人のような活躍に、長宗我部元親は以後「鬼若子」、「出来人」と畏怖されるようになりました。長宗我部元親の弟・親貞もこの戦いで初陣を飾りました。本山氏は、兵力で勝っていたにもかかわらず敗退し、多数の拠点を長宗我部氏に奪われました。しかし、勝利した長宗我部国親は、宿敵・本山氏に止めを刺す寸前で病による退却を余儀なくされました。岡豊城での治療も功を奏さずに、間もなく死去します。長宗我部国親は元親に「本山を駆逐することが一番の供養になると心得よ」と遺言しました。跡を継いだ長宗我部元親は、調略を駆使して本山氏の切り崩しを行い、2年後の1562年に本山茂辰が籠る朝倉城を破棄させて大きく勢力を削ぐと、その子・親茂を長宗我部氏に降伏させて、父の悲願を達成しました。その後、一条氏からの脱却を図る長宗我部元親は、1569年に一条兼定と結んだ安芸国虎を滅ぼし、1575年には一条氏を「四万十川の戦い」で粉砕し、土佐の統一を完成させました。長宗我部元親はさらに四国の平定を目指し、大きく飛躍していく事になります。

その次に、教興寺の戦いです。教興寺の戦いは、河内・高安郡教興寺村(現・大阪府八尾市教興寺)付近で行なわれた三好長慶と畠山高政との合戦です。戦国時代畿内での最大規模の会戦です。この戦いは、下克上で細川政権を崩壊させた新興勢力・三好政権と、細川氏と同じく室町幕府「三管領」の一角で、長年対立してきた旧勢力の河内・畠山氏が、畿内の覇権をめぐって争った一連の戦いの最終決戦となりました。1562年4月8日の「久米田の戦い」で、管領・細川晴元、河内守護・畠山高政、近江守護・六角義賢(承禎)、安見直政、遊佐信教、根来衆らの連合軍は三好勢に勝利しました。その勢いで畠山高政は、三好長慶の居城・飯盛山城を包囲し、周辺の支城を攻略し始めました。三好長慶は、「久米田の戦い」に敗北し、弟・三好義賢(実休)を失いましたが、支配下にある摂津や丹波の国人衆を河内国へ呼び寄せました。そして、摂津・鳥飼に逃れていた三好長慶の嫡男・義興や松永久秀の元に、池田長正、伊丹親興、内藤宗勝、有馬村秀らが集まってきました。畠山高政は、三好方の援軍が到着する前に総攻撃を敢行しましたが、飯盛山城の守りは堅く、援軍を頼んでいた六角義賢が来ない事から膠着状態となりました。飯盛山城を落とせない中、「久米田の戦い」で破れて散り散りとなっていた三好勢が息を吹き返し、5万もの軍勢で飯盛山城救援に駆けつけてきました。畠山高政は、これを迎撃するために城の包囲を解きました。そして両軍は、河内・高安の教興寺付近で対陣しました。三好勢はさらに増えて6万の軍勢になり、4万の畠山勢より優位に立ちました。しかし、畠山勢には雑賀衆や根来衆の鉄砲4000丁があり、「久米田の戦い」で三好長慶の弟、義賢はこの銃弾により討死しました。6月20日早朝、鉄砲の使えない雨を待っていた三好勢の先鋒・三好政康が畠山勢に攻撃を開始し、決戦の火蓋が切られました。一進一退の攻防が続きましたが、風雨の強まった昼過ぎに紀伊の有力武将で畠山方の湯川直光が討死したのをきっかけに雑賀衆が敗走し始め、三好勢が優位に立つと夕方には勝負がつきました。畠山勢は、6000余が討ち取られました。敗れた畠山高政は、紀伊へ逃れました。三好勢は、畠山勢を追いながら大和方面へ戦線を拡大しました。京都にいた六角義賢は、降伏して近江へ帰国しました。これにより、三好長慶は畿内を完全に取り戻しましたが、「久米田の戦い」で弟・義賢や有力家臣の多くを失った事、翌年に嫡男・義興が病死(松永久秀による毒殺)した事、翌々年には松永久秀の讒言を受けて弟・安宅冬康を殺害した事などが災いし、精神に異常を来たして病死する事になります。三好家は養子・義継が継ぎますが、松永久秀に実権を掌握される事になります。

その次の次に、奥の細道:松尾芭蕉が多賀城に到着です。松尾芭蕉は多賀城を訪れました。芭蕉は、壺の碑(多賀城碑)を見て「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と涙をこぼしたといいます。

そのまた次に、会津戊辰戦争:第三次白河攻防戦です。「第一次白河攻防戦」で新選組・斎藤一らが、白河城を奪取しました。その後、「第二次白河攻防戦」で参謀・伊地知正治が率いる新政府軍の攻撃を退けました。白河口総督として会津藩家老・西郷頼母が、副総督として若年寄・横山主税が白河城に入場しました。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着しました。新政府軍は宇都宮城の土佐藩兵に協力を仰ぎ、東山道軍に薩摩藩の他の部隊を合流させ増員しました。兵力は新政府軍が約700名、列藩同盟軍が2000から2500名でした。新政府軍は白坂口へ本陣を置き、白河城の攻略を開始しました。新政府軍は兵力を3つに分け、本体は伊地知正治が率いて少数の囮部隊として中央から進軍、野津鎮雄と川村純義が指揮する2部隊は左右へ迂回して列藩同盟軍を包囲し、退路を断ちつつ進軍して白河城を攻略する作戦をとりました。左右の迂回部隊がまず先発して時間差をつけ、遅れて本体が進軍して小丸山を占拠しました。新政府軍本隊は、多数の旗を掲げて大軍と見せかけ、列藩同盟軍が布陣していた白河城南に位置する稲荷山に砲撃して、注意と兵力を引きつけました。稲荷山と小丸山の間で壮絶な砲撃戦が開始されました。この際、稲荷山に激励に赴いた列藩同盟軍副総督の横山主税が銃撃されて戦死しました(稲荷山の戦い)。西郷頼母は稲荷山へ白河城と他の方面から戦力を逐次投入し、新政府軍本隊へ攻撃を仕掛けました。こうして手薄になった立石山と雷神山へ、新政府軍別動の2部隊が侵攻しました。雷神山には川村純義が率いる右翼軍が襲い掛かり、雷神山を占領しました。「雷神山陥落」の報に驚いた白河城の西郷頼母は、慌てて白河城の守備兵を雷神山奪回に向かわせましたが、川村純義が率いる右翼軍の山頂からの射撃により撃退されました。敗走する列藩同盟軍を追撃しつつ、城下町に突入しました(雷神山の戦い)。また、野津鎮雄が率いる左翼軍が立石山を攻撃し、激戦の末に奪取しました。指揮を取っていた会津藩朱雀足軽一番隊隊長の日向茂太郎が戦死、この苦戦を見た仙台藩参謀の坂本大炒は手勢を率いて立石山方面に向かいましたが、左翼軍の銃撃を受けて戦死しました。また、世良修蔵暗殺実行犯の一人、姉歯武之進もここで戦死しました。こうして立石山周辺を完全に占拠した野津鎮雄が率いる左翼軍は、白河城に向かって進軍を開始しました(立石山の戦い)。かくして稲荷山・雷神山・立石山で敗れた列藩同盟軍は総崩れとなり白河城目指して敗走したものの、白河城に至る奥州街道は封鎖されたため、阿武隈川を渡り北方に敗走しました。こうして新政府軍は城下へと突入し、白河城を占領しました。会津藩総督の西郷頼母は、白河城を放棄して北方に全兵逃走しました。列藩同盟軍は横山主税、軍事奉行・海老名衛門をはじめ幹部多数を失って約700名の戦死者を出し、新政府軍の圧勝に終わりました。「仙台烏に 十六ささげ なけりゃ官軍高枕」と謳われて新政府軍に恐れられた「十六ささげ」とは、「誠心隊」の事です。「誠心隊」の隊長は棚倉藩家老・阿部内膳で以下、有田大介、大輪準之助、北部史、志村四郎、川上直記、梅原彌五郎、須子國太郎、宮崎伊助、鶴見瀧藏、宮田熊太郎、湯川賢次郎、岡部鏡藏、村杜勘藏、野村絢、山岡金次郎の十六士です。「誠心隊」は、新政府軍に勇猛に挑んだ為に恐れられました。しかし、阿部内膳は白河の「桜町攻防戦」で奮戦し、金勝寺で敵銃弾に斃れました。この「第三次白河攻防戦」は、「戊辰戦争」最大の激戦となりました。たった1日でこれほど多くの戦死者を出した戦いは他にありません。この後、列藩同盟軍による「白河奪還戦」が繰り広げられる事になります。

最後に、箱館戊辰戦争:箱館総攻撃です。新政府軍の青森口総督・清水谷公考が江差から上陸し、松前・木古内から進軍した東下軍と二股から進軍した南下軍が有川付近に集結、箱館制圧の体制を整えました。旧幕府軍は、大鳥圭介らが七重浜の新政府軍本営を数度に渡って夜襲し、攻勢に出ました。しかし、新政府軍は軍艦を箱館湾に進出させて「箱館総攻撃」を開始し、海陸両方から箱館に迫りました。旧幕府軍では大鳥圭介が、五稜郭北方の進入路にあたる亀田新道や桔梗野などに伝習歩兵隊、遊撃隊、陸軍隊などを配置して指揮を執っていました。そこへ、新政府軍4000名が大挙して押し寄せてきました。大鳥圭介は東西を奔走し、自ら大砲を撃って力戦しましたが、五稜郭に撤退しました。また、旧幕府軍が五稜郭の北に急造した四稜郭では、松岡四郎次郎が率いる一聯隊が防戦していましたが、五稜郭との中間に位置する権現台場を新政府軍に占領されると、退路を断たれる事を恐れ、五稜郭へ敗走しました。一方、「豊安丸」と「飛龍丸」に分乗した陸軍参謀・黒田清隆が率いる新政府軍700名が、夜陰に紛れて箱館に近づきました。「豊安丸」の部隊は山背泊から上陸し、弁天台場の背後を脅かしました。黒田清隆の「飛龍丸」の部隊は寒川村付近に上陸し、絶壁をよじ登って箱館山の山頂に到達しました。山頂にいた旧幕府軍監視兵は驚いて遁走し、夜明けまでには箱館山を占領しました。この時、箱館にあって新政府軍の諜報活動などを務めていた遊軍隊が、箱館山薬師堂でこの奇襲部隊を迎え、山道の案内にあたりました。遊軍隊は、多数の市民が参加したゲリラ部隊ともいえる組織で、旧幕府軍の市中掛の下役や弁天台場に隊士として潜入した者もいました。箱館山に新政府軍現わるの報に接した箱館奉行・永井尚志は、弁天台場の守備を固めるとともに、瀧川充太郎が「新選組」、「伝習士官隊」を率いて箱館山へ向かいました。しかし、山頂からの攻撃は圧倒的で、大森浜沖の「陽春丸」からの艦砲射撃もあって一本木関門付近まで退き、さらに五稜郭まで後退しました。「陸軍隊」の隊長・春日左衛門、「見国隊」の隊長・二関源治が戦死しました。箱館市中を制圧した新政府軍は一本木関門に兵をとどめ、五稜郭、千代ヶ岡陣屋と対峙しました。これによって孤立した弁天台場の救出に向かった土方歳三は、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死しました。さらに副総裁・松平太郎が諸隊を率いて箱館奪還を試みましたが、失敗しました。こうして戦闘は籠城戦へ移行します。ここで、「新選組」副長・土方歳三は散りました。愛刀・和泉守兼定を引っ提げ、「新選組」を率いて「鳥羽伏見の戦い」から始まった「戊辰戦争」を戦い抜きました。「甲州勝沼の戦い」、「北関東戊辰戦争」、「会津戦争」と戦い、「箱館戦争」では「蝦夷共和国」の陸軍奉行並に選出されました(陸軍奉行は大鳥圭介)。五稜郭を占領後、土方歳三は「額兵隊」などを率いて松前へ進軍して松前城を陥落させ、残兵を江差まで追撃しました。新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした「宮古湾海戦」にも参加しました。新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始すると、土方歳三は「二股口の戦い」で新政府軍の進撃に対して徹底防戦しました。土方軍が死守していた二股口は連戦連勝でした。しかし、もう一方の松前口が破られると、やむなく二股口を退却して五稜郭へ帰還しました。そして、新政府軍の「箱館総攻撃」が開始され、「新選組」隊士・島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲されて孤立したため、土方歳三は僅かな兵を率いて出陣しました。新政府軍艦「朝陽」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて、敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発しました。土方歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻めて来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を執りました。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言います。
箱館湾海戦:箱館政権の艦隊は「回天丸」を中心に「蟠竜丸」、「千代田形丸」の3隻の軍艦から成っていました。それに対して新政府軍は、甲鉄艦を旗艦として「朝陽丸」、「春日丸」、「陽春丸」、「延年丸」、「丁卯丸」の6隻の軍艦から成り、艦砲射撃で陸上の要塞を破壊して陸上部隊の上陸を支援しました。6月10日に「千代田形丸」が新政府側に拿捕され、箱館政権の軍艦は「回天丸」と「蟠竜丸」だけになりました。両艦とも数多くの命中弾を受けながらよく戦いましたが、6月16日に「回天丸」の機関部が損傷しました。弁天台場付近で意図的に座礁させて、浮遊砲台的に利用されるようになりました。6月20日の「箱館総攻撃」では、「蟠竜丸」が新政府軍の「朝陽丸」の弾薬庫に砲弾を命中させ、「朝陽丸」は爆発轟沈しました。これによって旧幕府軍の士気を大いに高めましたが、程なく「蟠竜丸」も浅瀬に乗り上げて座礁してしまいました。これにより、旧幕府軍がすべての軍艦を損失したため、箱館戊辰戦争での海戦は終了し、「戊辰戦争」の最終舞台は陸上戦へと移り変わっていく事になります。

今日の誕生日:徳川家治(江戸幕府第10代将軍)、上村彦之丞、竹鶴政孝、上田馬之助、石坂浩二、ブライアン・ウィルソン(ザ・ビーチ・ボーイズ)、ライオネル・リッチー、マイケル・アンソニー(ヴァン・ヘイレン)、平野謙、安部龍太郎、ジョン・テイラー(デュラン・デュラン)、河合その子(元おニャン子クラブ)、大坪千夏、ニコール・キッドマン、本山雅志、山田麻衣子、鬼龍院翔(ゴールデンボンバー)、相武紗季、宇賀なつみ、マリエ、May J.、滝口ミラ(元アイドリング!!!5号)、水野由結「YUIMETAL」(BABYMETAL)、内村莉彩(SUPER☆GiRLS)、緋村剣心

今日の記念日:世界難民の日、ペパーミントの日、健康住宅の日

今日の「今日訓」:本日は、1974年に「アフリカ統一機構難民条約」が発効した事により「アフリカ難民の日」となりました。これを2000年12月4日の「国際連合総会」で改称して「世界難民の日」、「健康住宅推進協議会(現在の日本健康住宅協会)」が制定した「健康住宅の日」、6月の北海道の爽やかさと「はっか(20日)」の語呂合わせで「ペパーミントの日」となりました。
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