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2017年06月20日01:44

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【読んだ本メモ】東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』

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これを課題本にした読書会に行くので、とりあえず読んだ内容の個人的メモに。
この本に関しては読書会がなくても興味ありそうな人誘って読ませて語り合いたいなーと思っていたので、すっげえ楽しみです。

内容的には東浩紀がこれまで考えてきたこと、過去の著作で述べてきたことを延長・統合しつつ、あらためて現代において必要とされる哲学とはなんだろうかということについて、一旦の結論が述べられている。
哲学的な話だけでなく、サブカル・オタク文化、SF小説、ドストエフスキーなど、一見かけ離れたようなキーワードがちらほら見える。
それが読んでいくうちになるほどそう繋がってくる。
僕はキモヲタじゃないのでオタク文化とかあんまりわからないし、ドストエフスキーは少し読んでいるけどSF小説はほとんど読んでいませんが、充分楽しめました。

前半第一部では「観光客の哲学」というタイトルがメインテーマとなる
後半第二部は「家族」「ぶきみなもの」というキーワードの小さい論考と、ドストエフスキー論。

全体的な感想とか、こう読んだ!的なことは読書会のときまでに考えることにする。
まだ内容を掴めたくらいで、偉そうに語ったりここから発展させて持論を展開するようなことはできないや。

●第一章で書いてあること、「観光客の哲学」とはどういうことか

「観光客」という言葉が意味しているのか。
観光客というのは、以前読んだ『弱いつながり』にも出てきた言葉ですね。
ある共同体に属することを意味する「村人」と、共同体を渡り歩く「旅人」。
それに対する新たなあり方、共同体に属しながらたまに他の共同体を訪れる「観光客」。
このうちの観光客的な生き方を勧めることを書いていたか。

『弱いつながり』メモ
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=4799115&id=1956351951

この世界で生きている限り、イヤでも他者との関係を考えなければならない。
個人レベルでの人との付き合いから、国家社会における付き合いまで、サイズの大小はさまざまある。

だけども、他者との関係を真剣に考えるのはなにかと疲れる。
大きなところでいうと、外国との友好関係だとか、異文化理解だとか。
「そんなことより自国の文化を大事にしようぜ!」になってしまっては
自国の文化を誇ることは良いのだけど、それが他者排斥の裏返しになっていないか、それは危険だ。

「他者」のかわりに「観光客」という考え方で他人との関わり方を考えてみるのはどうだろうか、と提案している。
仲間内の閉じた関係でよい、でもたまには観光しよう!
という考え方から他者との関係性を再考してみようという意図があるのだという。
観光客から始まる新しい他者の哲学、導入のとこから面白いなと思った。
※ただし、具体的な観光業について論じているわけではない。

観光するというと娯楽的・大衆的であり、報酬のために行うものでないことが前提としてある。
いままでの哲学では真面目でないとされて、検討する意義があるのか?と疑問視されていたという。

しかし、現代のテロリズムが政治家や要人ではなく一般市民の生活を狙ったものになっている。
テロリストが観光地に容易に入れること、またテロリズムが観光の対象になること。
そういう意味で、観光を考えることが政治との関係を考えることにもなる。
まじめとふまじめの境目にあるといえる。

一見「ふまじめ」な観光について真剣に考えることが、現代の世相にあった哲学なのだヨ、というのがこの本の主張するところ。
二章以降からは、さまざまな哲学思想を解説しつつその根拠を述べていく。

合間の付録、二次創作について。
ここでいう二次創作は、マンガやアニメの一部設定を取り出して、原作から離れた自分の物語を作り出す創作活動のこと。
観光と二次創作の共通点として、原作・現地に対する責任を負わないということ。
原作を加工する二次創作と、その土地本来を姿に別のイメージを持たせる観光、そこに類似性を見出している。

現在のサブカルチャー文化は二次創作なしではなりたたず、原作に二次創作の余地を織り込んでいる。
現代は作品そのものと消費環境を切り離して、前者だけを純粋に批評することができない。
同様の論理で現実の二次創作者である観光客と結びつけている。


第二章以下で登場した哲学話で面白かったとこメモ

●ルソーは人間嫌いで、人間は本当は社会なんて作りたくないはずや、でもなんでつくるんやろか、を考えた。
『社会契約論』と同時期に出たアダム・スミスの『道徳感情論』も私的で孤独な個人がいかにして社会を構成するようになるのかのメカニズムを書いている。
古典は手が出しづれーなーと思っていたけれど、ルソーがこんな陰キャラだったと知ったらとたんに読んでみたくなってきました。

●ライプニッツの「最善説(オプティミズム)」
世界は最善であり、悪の事実には目的があることなので、細かいことはいいだろう、世界はうまくいっている。
※ダーウィンの進化論には最善説的な性格がある。生物のもつ欠点は淘汰の過程では理由があったので本質的には間違いではない、と捉えている。


これに対抗して、ヴォルテールがドタバタ冒険&哲学的省察小説『カンディード』で批判した。
この世界には間違いがある、と考えなければ人は誠実に生きられないとする。

ドストエフスキーが、わしもカンディードみたいなの書きたいやで〜と思って書いた結果が『カラマーゾフの兄弟』の「プロとコントラ」の章なのだそうです。

カンディードで描かれる仮想の世界旅行が、東浩紀の考える観光の観念と通じるところがあるのだと。
世界には悲惨な現実があるかもしれないという思考実験、これがダークツーリズムの目的とする想像力の拡張と同じものと考えられるのだってさ。
おもろい。


●イマヌエル・カント『永遠平和のために』に主張される三つの条件
・各国家における市民的体制は共和的でなければならない
永遠平和の体制に参加する国は専制的であってはならず、自分たちで自分たちを統治する国でなければならない。
カントが重視したのは共和主義で、民主主義はアカンと否定している。(←駄洒落)

・国際法は自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである
それぞれの国が市民の自由を保障した共和国になった後に、それらの国が合意の上で上位の国家連合を作る。
カントは、主権国家は世界共和国(統一政府)の実現を望まない、でも結果的に平和を実現する「消極的な代替物」を考えた。
それはルソーが、人間はみんな社会が嫌いだけど社会が作られてしまう理由を考えたところと共通する。

・世界市民法は普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない
普遍的な友好をもたらす諸条件がなあにかというところで、カントは「訪問権」について語っている。
国家連合に参加した国の国民は、たがいの国を訪問しあうことができなければならない。
あくまで訪問の権利だけを意味していて、客人として歓待される権利は含まない。

東浩紀は、共和制とも国家連合とも関係しない第三条を観光の観念と結びつけて論じている。
ならずもの国家は排除すべきかもしれないがならずもの国家からの観光客は排除してはならない。
関係の悪い国家からの観光客だとしても、訪問する権利を普遍的に保障しなければ、関係の悪い国家と無関係に作ることのできる永遠平和のための国家連合という原理を内部から蝕むことになる。

カントは訪問の権利と客人の権利を区別しているので、訪問先で歓迎されるとは限らない。
観光であり限り身の安全は保障されるけど、保障されるのはそこまで。
ここも観光客のあり方と重なる。
友好は訪問なしには行えないけど、訪問できるからといって友好とは限らないわけだ。

また、個人が主体となる行動である観光が、国同士の関係悪化を阻止している側面があり、平和へ貢献しているといえる。
訪問・観光が平和への条件なのだ。

だから我々はならず者国家を排除するとしても、ならず者国家からの観光客は排除してはならない。
国家として評価するのではなく、そのような権利を普遍的に保障する必要がある。

成熟した市民が成熟した国家を作り、成熟した国家が成熟した国際秩序を作ることで、世界平和が達成される
 AND
そこからはずれる「利己心」「商業精神」の道を同時に示した
 のが、カントの思想。


●カール・シュミットの「友敵理論」(ともてきりろん)
第二次大戦時はナチスドイツの理論的支柱で戦後戦争犯罪人として逮捕されたヤベーやつ……と同時に独特の理論構成で知られて、保守・リベラル区別なく社会思想に影響を与えた学者だそうだ。
(全然知らなかった)

シュミットの「友敵理論」によると、政治が政治として機能するのは、「友」と「敵」が峻別されているときだけだ。

抽象的な判断には、判断の基礎となる固有の二項対立がある。
美学的な判断には、美と醜。
倫理なら、善と悪。
経済的な判断には、益か損。
それらの対立は原理的に独立している。
美しいけど正しくないことや、正しいけど儲からないことはなんぼでもある。
そのような判断ができるのは、美学と倫理と経済が独立した判断の範疇を構成しているからで、判断の独立性はそれぞれ固有の二項対立をもっていることで保証される。

では政治を政治として美学や倫理や経済から区別する固有の二項対立はなんだろうかというとき、シュミットは友と敵の対立だと考えた。
戦争のような殺すか殺されるかの極限状態で、友を守るために敵をブチ殺す判断を下すことが、シュミットの考える政治の本質だ。
敵の主張のほうが正しいとか、敵と組んだほうが儲かるとか、政治とは別種の判断は政治とは関係してはならない。
倫理的に正しくなくても、経済的に損失でも、友の存在を守るためなら遂行すべきである。
というのが友敵理論。

シュミットのいう「敵」というのは、共同体の敵を意味している。
私的には仲良しでも、公的に敵であれば戦争で戦わなければならない、それが政治・戦争の本質なのだ。
シュミットが友敵理論を書いたのが『政治的なものの概念』という本で、それをベースに具体的な敵であるパルチザンについて書いたもの、ちくま学芸文庫で出ている『パルチザンの理論――政治的なものの概念についての中間所見』は読みました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960930857&owner_id=4799115

独裁を肯定しうる、危険っぽく思える友敵理論がどうして危険だからというだけで排除できないかというと……
カントとシュミットのあいだにいたヘーゲルは、国家を市民社会の理性にあたるものだと捉えた。

我々がひとつの土地に住みひとつの歴史を共有しひとつの社会を作るひとつの民族だという自己意識を抱いた時に、国家は生まれる。
人はまず家族の愛に包まれた自足した存在として生き、家の外の社会に出て公と私の間で引き裂かれて自足できなくなり、そのとき国家がその分裂を統合する契機となって現れる。
これは、ルソーの、人間は人間が好きでない、社会を作りたくないにもかかわらず現実に社会をつくる、なんでや…?
に対する回答なのだ。
人間は国家をつくり国民になることで、社会を作りたくなかった未成熟な自分を克服する。


このヘーゲルの人間観から来て、人間の普遍性と特殊性を統合して国家を存続させるために政治を行うために友敵を峻別し国家の輪郭を明らかにせよと言っている。

人は普遍的な意思を特殊な意思として内面化することで初めて精神的に成熟し「人間」となる。
その契機は家族でも市民社会でもなく、国家だけが与えることができる。
人は国民にならなければ、友敵の峻別がなければ人間になることができない。

この理論は個人主義・自由主義の果てに国家がなくなり世界がひとつになるんちゃうかというグローバリズム批判のために行き着いたものだという。


この考えは、観光客の思想における観光客を政治的思考の対象にしない、障害となるものだ。


●コジェーヴとヘーゲル
アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』
誇りを失い、他人の承認も求めず、与えられた環境に自足している存在は、たとえ生物学的には人間であってももはや精神的には人間とは言えない。
人類がみなそのような自足した存在になってしまえば、種としては残っていても、人間の歴史は終わる。
コジェーヴはこの人間観をふまえて、第二次大戦後の世界を「ポスト歴史」と呼んだ。
そこで人間がつくる記念碑や橋やトンネルは、鳥が巣を作り蜘蛛が巣を張るようなもの。
カエルや蝉のようにコンサートを開き、子供の動物のように遊び、大人の獣のように性欲を発散する。
ポスト歴史の世界でも人間は社会活動をし都市や文化をつくるが、それは動物の戯れに近い。


シュミットもコジェーヴも、人間同士の生き死にをかけた戦いがなくなり国家間の戦争が解消され、世界が一つになり消費活動しか存在しなくなった時代における人間の消失を問題にしている。
それをシュミットは政治の喪失(自由主義化)と呼び、コジェーヴは歴史の終焉(動物化)と呼んだ。


●ハンナ・アーレント『人間の条件』
ずっと前に読んでみて難しすぎて挫折したやつだ〜
人間の行う社会的な行為を、「活動(アクション)」「仕事(ワーク)」「労働(レイバー)」の三つに分類している。
このうち活動と仕事は人間の生に意味を与え、労働は意味を与えない。
にもかかわらず現代社会では労働が優位になっている。

活動は、公共の場での演説や議論といった言語的で身体的な行為。
対して労働は、人間の肉体の生物学的過程に対応する行為、つまり身体の力だけが問われること。
ついでに仕事は、すべての自然環境と際立って異なるものの「人工的」世界を作り出す行為。

活動は、誰が行なっていことかが重要で、他者がいる。
労働の場には他者がいない。
客は生命力の宛先ではあっても、他者として現れているわけではない。
私的な経験で、公共の意識にはつながらない。
人間が人間として生きるのは活動に従事するときだけで、労働の場では人間の条件は奪われているのだ。

近代の大衆社会では労働者はそのまま消費者で、労働の問題と消費の問題は表裏一体となる。
シュミットとコジェーヴとアーレントはみな、経済合理性だけで駆動された政治なき友敵なき大衆消費社会を批判するために古き良き人間の定義を復活させようとした。


●三章メモ
現代は、グローバリズムで欲望がつながっていながら、ナショナリズムで政治と思考は繋がらない世界という、二曹構造の時代になっている。

●リバタリアニズム(自由至上主義/自由尊重主義)
諸個人の自由を最大限重視し政府による強制を最小限にとどめるべきだとする。
福祉国家(大きな政府)に対して否定的な点でリベラリズムと対立する。

●コミュニタリアニズム(共同体主義)
普遍的な善よりも共同体の善を重視する。

ジョン・ロールズの『正義論』(リベラリズム)への批判
普遍的な正義を追求する普遍的な主体なんて仮定がキツイ。
実際の政治理論は特定の共同体の特定の価値観からしか前提とできない。
普遍的な正義を信じる/信じないというところで、リベラルvsコミュニタリアンの論争があった。

●アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『帝国』
グローバル化が進む冷戦後の世界を「帝国」と呼び、複数の主権国家の合従連衡からなるそれまでの秩序とはまったくことなる秩序を生み出していると述べた。
国民国家がもはや経済と文化を自分の管理下に置けない、そこから新しい秩序が始まる。
否定的な意味で群衆を指す、マルチチュード
帝国にとってマルチチュードは帝国自身が生み出した抵抗運動となる。

●「郵便的」の含むところの意味は、誤配があるということ。
観光における誤配は意図せぬ出会いがあることで、誤配があらたなコミュニケーションの可能性を生む。
観光客は連帯なく偶然的に関係を築ける郵便的マルチチュードといえる。

●大きなクラスター係数
社会は個人の集まりでなく、身近な人間関係の三角形がいくえにも重なった中間集団(共同体)がさらに重なったもの。
その状況をクラスター係数が大きいと表現する。

●小さな平均距離
友達の友達を追って行くと意外と早くネットワークの構成員全体を覆えてしまうという特徴。
社会学の「六次の隔たり」仮説、世界の70億の人口のなかから任意の人から任意の人へはわずか6つの友人関係を経由することでたどり着けるという説。

現代はスモールワールド性とスケールフリー性を併せ持つ世界だといえるのではないか。
ヘーゲルのパラダイスは多くの人々にスモールワールドの秩序しかみえていなかった時代の社会思想なのではないか。

●プラグラティズム
リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』
現代では哲学や宗教のような普遍的な価値を生み出すものが、私的なものとしては良くても公的に強制することはできないという矛盾がある。
それしか許されないし、それでいい、矛盾を積極的に受け入れようというのが、リベラル・アイロニストという立場。

公的なものと私的なものの分裂を受け入れるというのは、自分の私的な価値観が偶然の条件によるものだと受けいれること。
たまたま日本人だから、たまたま男に、たまたまこの時代に生まれたからこのような信念を持っているのであって、別の条件なら別のことを信じただろう、と想像を巡らせること。

●第二部のキーワード
・家族のもつ特徴 偶然性、拡張性
・不気味なもの
SFの舞台 外宇宙→内宇宙(心)→サイバースペース
現実と虚構・プレイヤーとキャラクターの領域を

もとはフロイトの精神分析上の概念で、不気味さの本質は親しく熟知しているはずのものが突然に疎遠な恐怖の対象に変わる逆転のメカニズムのこと。

●ラカンの精神分析理論
人間の主体は、想像的同一化と象徴的同一化の組み合わせで構成される。

想像的同一化 目で見えるイメージ(像)・スクリーンへの同一化。
象徴的同一化 世界の背後からスクリーンへの視線
人は、人のなりを真似るだけでは(想像的同一化)だけでは大人になれない。
彼らがどうしてそのようなふるまいをするのか、そのメカニズムを理解すること(象徴的同一化)で初めて大人になる。
人間は見えるもの(イメージ)に同一化するだけでなく、見えないもの(シンボルあるいは言語)に同一化することで、初めて大人になる(主体になる)。
ラカンは、見えるものの世界を「想像界」、見えないものの世界を「象徴界」と名付けた。


後半はメモるのが面倒くさくなったので書いていないだけで、内容はとても面白い。

ドストエフスキー作品の主要な登場人物のあり方の変遷を追っていき、最後に『カラマーゾフの兄弟』から親と子の関係を論じていくあたりは内容的にアツい。
子として死ぬだけでなくて、親として生きる道があるのだという道を示すところには理屈を超えたパワーがあるように思う。
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