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2018年10月17日20:19

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佐多稲子の『私の東京地図』を読む

佐多稲子の文章が好きだ。
清潔な感受性、正確で細やかな観察力、どの時期にもその底に存在する芯の強さが、彼女の文章の特徴である。それはそのまま彼女の人間性そのものの最大の特質であるのだろう。そう聞くと、なるほどそれではその人はさぞ育ちの良き環境や家庭で生い立った女性なのだろうなと、思われるかもしれない。だがまったく違う。じつはこの人は、かなり破天荒な星の下に生をうけ、けっして順風などではない少女時代と10代を過ごしてきた。それら全体を知って佐多の前記の人間と文章の特徴を知ると、この女性のなかの資質の何がそういうものをはぐくみ、鍛えたのかとある感慨に打たれずにいられない。

本名がそうである田島イネ子は、明治37年の1904年、長崎市に生まれた。父は旧制中学5年生の18歳、母は高女生徒の16歳だった。このことから、2人は早熟で情熱的、激しいロマンに燃えたカップルだったと分かる。だが旧制中学生と高女は紛れもなく当時の社会のエリートの卵。ただの無軌道だけの2人ではなかったろう。後のイネ子の生涯を知ると、その血が生きていると分かる。若い2人のその事実を知ってかれらの親族は、祖母を母、その甥を父の戸籍上の届を出した。しかし2人はその措置に反発し実家を飛び出して新家庭を持つ。だがきちんとした職につけない若き父に生活力はなく、母は体を壊し、イネ子が小学1年のとき病没してしまう。その時点で叔父の佐田秀美が早大生で劇評を書きその仕事で生計をたてていたのを頼って祖母とともに一家は上京し、向島の長屋の叔父の住まいに同居する。長崎の尋常小学校でずっと級長だったイネ子は勉強好きで本が好きな少女だった。だが相変わらず職がない父はある日、女工募集の広告を見て、「おまえも行くか」といい、「でも私はまだ学校があるから」という小学5年、11歳のイネ子に学校を辞めさせ、女工にしてしまう。その経験を書いたのが、その出来事の後の17年後に書かれる佐多稲子28歳のデビュー作の『キャラメル工場から』である。向島の長屋の住まいから神田和泉橋の工場まで市電で40分かかり、朝7時を過ぎると門を閉ざして無断欠勤扱いになるため、イネ子は毎朝冬の早朝に起床して市電の停留所まで歩いた。下記はその作品の冒頭である。
「夜明けまえの空は、包丁を研いだような冷たい青さだった」

一か月後の給与のとき、それまでとは制度が変わって歩合給になる。決まりより1歳下の彼女は年齢を偽って職を得たのだが、年長の同僚女工たちと同じ成果は挙げられず、思った手間賃を得られなかった父は怒って辞めさせ、今度は上野の街の中華料理店に女給として働きに出す。突然学校に来なくなったイネ子を心配した担任が「せめて学校を卒業するまでは来るように」との手紙をだし、店に回送されてくる。女給のイネ子に自由になる時間は便所のときしかない。それを読み、1人で涙を流す。一家の生計を頼っていた叔父は結核と重い脚気になり、21歳で没する。いろんな本の話をしてくれ、知識人のこの叔父が大好きだった知らせを受けたイネ子が息せき切って戻るが、すでに息を引き取っていた。やがてやってきた葬儀屋の男はそのままだと棺に入らないと、叔父の遺体の骨を脚をボキボキと音を立て、容赦なく折る。

その後イネ子は池の端の料理屋に勤め、さらに丸善の事務員になる。そこで慶大生に見染められ結婚するが資産家の実家内では遺産の相続をめぐって血族の争いが起きる。性格の弱い夫は精神を病むようになり、妻のイネ子と2人で3度自殺を図る。そのあいだにイネ子は赤子を妊娠していることが分かる。この後で働き出した本郷動坂のカフェで芥川龍之介と知り合うが、自殺の4日まえの芥川から、「あなたは、もう、もう一度自殺しようとは思いませんか」と訊かれる。

『私の東京地図』は、少女で長崎から上京し、11歳で女工にさせられてから以降のさまざまな生涯の段階や運命の日々を生きた東京の街を綴った佐多稲子の忘れがたい著作である。敗戦期の49年刊行。41歳で焼け跡に立った佐多稲子が連作12編で綴った。
この作の冒頭の文章は、以下だ。
「私の東京地図は、30年の長きにわたって歩いてきた道の順に、私の心の底に写されていった地図である」
出来事だけを現象的にいえば悲惨、むごいとしかいいようなく思えるが、文章からそのような印象は不思議にうけない。人生の段階ごとの街と生の光景とが、戦前日本の社会の時代感情を背景に、いいようもなく心に刻まれる。本物の文学の力とはそういうものだ。98年に94歳で死去。70歳以後の著作で数々の文学賞を受賞。


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