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2018年10月15日20:35

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五木寛之の語りの自伝

そういうものが、「人生の贈り物」との題のシリーズの1つとして、先週金曜までの全10回、朝日朝刊に連載されていた。
それを毎回10回読み、この人物をちょっと見直した。
五木の『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』『風に吹かれて』の3作の小説、エッセイのデビュー作の発表時期は、私の高校、浪人、大学入学という時期とかさなる。
率直にいって当時のわれわれは、何ともいえぬ魅力のある青春放浪時代のエッセイと時代的新鮮味のある前記2作だけを除き、この作家の著作を、大変生意気なのだが、頭からバカにしていた。
その理由は、前記の処女作3作のすぐ後に書き始められ、映画などに次々なっていった『青春の門』を筆頭に、わたしたちには、典型的な通俗風俗小説としか思えなかったからだ。
未読なのでたいへん失礼なのだが、その基本的評価は、私のなかで現在も変わらない。
だが、前記の語りの全10回の、現在83歳だかの五木の語り自伝を読み、私のなかで、この五木への評価が、明らかに変わった。
個々の作品そのものの評価とはべつに、この人物の生きてきた軌跡には、何か、真摯という言葉を使ってもよいようなある何ものかを、感じたのだ。
何が私にそう思わせたかは、私にはハッキリしていると感じられた。
それは、五木寛之という作家の書いた作品は残念ながら相変わらず私には感心できないが、その生の全体が生むものは、明らかに悪くないなという感想を私にもたらすことである。
その理由は何か
それは、じぶんの生きてきた軌跡に、あるいはその生きてきた世の中の実情を、その実態を、ウソの言葉で覆うという欺瞞を、この人物は許していないことから来ていると、私には思えた。
唐突に聞こえるかもしれないが、例えばそのひとつは、私の知る限り、この五木は、「民主主義」とか「戦後民主主義」とかの言葉を、決して使わないということがある。
その点で、同大学の野坂昭如、大橋巨泉、青島幸男、野末陳平などと、明確に違っているのだ。
私の知る限り、その言葉を著作中に決していちども使わなかった戦後の人間が、3人いる。
それは、太宰治、吉本隆明、五木寛之、の3人である。小林秀雄も勿論いわない。
ではなぜ、この3人は、その言葉をいわないか。
感性の内部に、羞恥心を持つからだと、私は思っている。
羞恥心は、何よりも、モラルというものの原初的基盤ではないだろうか。それが戦争から平和というものであっても、一夜にして変わる国の方針というものへの根本的不信と、そういうものがおのれの生の指針になることはないとの思いであろう。

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