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2017年07月22日10:27

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しがらみがあるから

■友人がニセ情報をシェア、8割は指摘せず放置 理由は「面倒くさいから」 LINE・博報堂が共同調査
(ウィズニュース - 07月22日 07:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=4680354


指摘すると、怒り出すやつとかいるでしょ。しがらみがなければ、あんまりいないけど。事実の探求を無粋だなんのとかいうくらい恥ずかしいことですけど。
聞くは一生の恥、なんですけど、人は知らぬが仏なんです。

カエサルもいってたように、人間は自分に都合の良いことだけを信じたい生き物なので、しょうがないです。

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「私もときどき、霊魂派を毒づいてみるが、これは相手を怒らせるだけで、一文の得にもならない。
科学からの霊魂信仰批判には、そういう特徴がある。
それは、怒っている人間に、理屈を言って聞かせると、ますます怒るのと、似たところがあるような気がする。
信念に理屈は、火に油らしい。
」(養老孟司『カミとヒトの解剖学』(法藏館、pp.106-107))
  
麻木久仁子「『誰も調べなかった日本文化史 土下座・先生・牛・全裸』 」(書評(2014.10.24))  
「嘘やら捏造は思うより容易に蔓延する。
が、 それを正すのは実に手間とコストがかかる。
嘘は言いっぱなしだが、反論はいちいち論拠をそろえなくてはならないからだ。
なおかつ、反論によって論理的に白黒ついても、 「いや、白黒つけるのも野暮だよね。」「諸説あるよね」と、悪しき中立主義が出てくる。
ウソとホントの真ん中に立とうとする人間は、結果的にウソの味方なのだ。
そうした隙をついて、今日もいろんなことが自覚的にも無意識にも捏造され続けているのだろう。 
『知能の高い低い、教養のあるなしに関係なく、人は自分の信じたいことだけを信じるいきものなんです。』」 

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諸説に含められないまちがいは、『諸説あります』とはなりません。  
話はここで終わりません。
こういう場合、文献学的かつ論理的に説を否定されると、ヘソを曲げてヘリクツをこねだす人間があらわれます。  

みんなが思い込む常識に対して、それウソだよー、じつはね・・・と雑学を披露すると、えー、知らなかった!
とみんな驚いてくれます。自分が雑学知識によって世の中の迷妄を糺し、人々を真実の方向へ導くことへの快感を覚えて酔いしれていたのに、実は自分が誤った道へみんなを誘導していたのだ、と気づかされて、一気に酔いが覚めます。  
わざとじゃないから罪はないけど、面目丸潰れ。うわあ、あの人、俗説を信じて他人に広めてたよ。かっこわる〜、なんて後ろ指をさされている気がして恥ずかしいったらありゃしない。  
そういうときは、あの説、まちがいだったんだって、ごめん、私もすっかりダマされてた!と正直に認めてしまったほうが、印象がよくなるんです。  
だけど、負けず嫌いの人は、プライドが傷つくのに耐えられないので、余計な言い訳やヘリクツをかましてしまいがちです。たとえば、こんな感じ。  

「『花子とアン』はフィクションなんだからいいじゃん。ここで史実を出すのは無粋ですうー。」  

「先ほどつぶやいた銀ブラの件は、俗説じゃないかという情報があったので、訂正します。まあでも100%確定じゃないし、好きな方に解釈してもいいかな・・・w」  

「チョット間違えてるんじゃないか。私はこう思うなぁという程度の私見にすぎないのに、「銀ブラの語源はブラジルコーヒーではない」とギャンギャン喚き立てるのは無粋。」  

「白・黒つける必要のないお話だったみたい・・・」  

カフェオーレはなんとも罪深いフレーズを作ってしまいました。こういういいわけに共通するのは、事実の探求を無粋だの好きな解釈だのと感情論にすり替えていることです。たとえば、迷惑行為を注意されたやつが、注意した相手の言い方が悪いだのとけちをつけて批判の矛先をかわして自分の失点をカバーしようとするのもこれと同じです。  

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「疑うことには、人の感情を逆撫でするリスクがあります。
エコロジーブームが始まったころ、私はエコに疑問を投げかけて、エコ信者から嫌われました。
ところがその後、一部の科学者たちが書いたエコ批判本の内容が、社会科学の見通しからするとあまりに稚拙で非現実的なヘリクツばかりなのに呆れはて、今度はエコ批判をする科学者を疑う
ようになりました。
エコを疑うのも大切だけど、エコを批判してる学者の主張も鵜呑みにせず、ホンマでっか? と疑うのが、本当の懐疑論なんですよ、と真実を説いたら、感謝されるどころか、今度はエコ批判信者から嫌われました。
結局我々人間は、他人のウソが暴かれると喜んで、自分のウソが暴かれると怒るんです。
真実の追求なんてタテマエにすぎません。
知能の高い低い、教養のあるなしに関係なく、人は自分の信じたいことだけを信じるいきものなんです。」(「部屋と開襟シャツとわたし」(パオロ・マッツァリーノ『誰も調べなかった日本文化史 土下座・先生・牛・全裸』(筑摩書房、2014.09)所収、pp.104-105)

養老孟司『真っ赤なウソ』p68
「キリスト教では、唯一絶対の神様は全知全能であると、こういいます。全知とはすべてを知っているということです。このことは非常に重要なことだと私は思っています。
科学に携わっていると、このことがよく分かります。
科学は客観性を追求する分野で、その客観性によって、この世に起こった出来事を知ることができるという前提に基づいているからです。
どうしてそれを徹底的に知ることができるかという、少なくともそこに神様がいてすべてを知っているからです。
ここが、非常に重要なところです。
(・・・)実際に起こったことは一つでも、人間がそれを知ることができるかどうかということがじつは大事なんです。それを端的に示したのが、日本文学でいえば芥川龍之介の『藪の中』です。
(・・・)ところが、科学の世界では自然科学の99パーセントまでが、事実というものは追求できるはずだという信念を持っているんです。そこにあるのは、「科学的」という表現ですが、本当に起こった事実は一つしかないということをいっています。
それをNHKは「公平・客観・中立」というんですね。
「公平・客観・中立」というのは、非常に科学的ですね。
しかし、これは本当は「人間の立場」じゃないということを私はいいたい。
これは、いわば「神の立場」です。
「公平・客観・中立」ってNHKの報道局長がいうときに、それはどこまで可能かという問題があるわけです。
それをいったのが、じつは『藪の中』なんです。
ところが、一神教の世界では、これは初めから議論にならないんです。
「神の立場」から見れば、すべてが見えているわけですから、本当のことが分かっているわけです。
NHKの報道が「公平・客観・中立」ということをモットーにしているということは、既にわれわれの考え方、社会の考え方が公式的には、キリスト教的一元論的な世界だということになってしまっている。
(・・・)「本当のことは、たった一つだったんじゃないの」と思っている人は多いですね。
科学をやっていれば必ずそう思います。
事実はこうであったと。
じゃあ、その事実はこうであったっていうことを、徹底的に突き詰めていくとどうなるんでしょうか。」


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