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2017年06月28日15:50

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もじたま日記・2307日目・同床異夢・・・「長孫無忌」の名前?

 2307日目
 ・・・「邪馬台国は何処にある?」ですか・・・「邪馬台(臺・壹)国」→「都、於、邪靡堆、則、魏志、所謂、邪馬臺、者也(隋書・俀國傳→則天武后が絡んでくるなら漢字は佞圀傳?or侫圀傳?)」・・・「佞(おもねる・へつらう・ニョウ・ネイ)=侫」、「俀(よわい・タイ・ツィ・テ)=イ+妥(やすい・おだやか・タ・ダ)」・・・ボク的にはナゼ「邪靡堆」の漢字を敢て当てたのか?、デス・・・「都、於、邪靡堆」は当時の「隋・唐」では「邪靡堆」の漢字で認識、使用されていた実際の「都」が存在していた?or「日本国」を「則天武后」的に、蔑視、貶める為の蔑称としての「漢字選択」だった?・・・だが、昔の「魏志倭人伝」の記録には敢て、「邪馬臺」と云う漢字が使用されていた場所である、と記述されているのだ・・・「隋書」を編纂した「唐」の「魏徴」であるが、名前が「魏の徴」である。そして問題にしたいのが「長孫無忌」の名前である・・・「長の孫は無し、忌むべし」、「長の孫、忌(いむこと)は無(な)し」か?・・・「禁止されるべき忌むコトが無し」の人物・・・?・・・頻繁に年号を変え、裏切った臣下の名前を蔑称漢字にし、「新漢字創作」に執着した「則天武后」が「隋書」に絡んでいるなら怪しい・・・
 称徳孝謙天皇(女帝・阿部)は「和気清麻呂」を「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」の名に変えて大隅国(鹿児島県)に流刑にした・・・
 元々、「和気清麿(麻呂)」の氏姓は「磐梨別公(いわなしわけのきみ)」だった・・・後、「藤野(輔治能)真人→和気宿禰→和気朝臣」に改めたらしく、「官位は従三位・民部卿、贈正三位、正一位」・・・
ーーーーー
 「隋書・俀国伝(貞観二年・628)」、
 「隋書、唐の魏徴」撰
 「長孫無忌」も編纂
 「長孫無忌(チョウソンムキ)
  生年不詳〜659年
  中国の初唐の政治家」
 「唐の
  太宗の
  長孫皇后の兄
  唐王朝の外戚」
 「字は輔機(ホキ)」
 「本貫は
  河南郡洛陽
  凌煙閣二十四功臣の第一位
  開皇十五(595)年頃に生まれ
  顕慶四(659)年七月死没
  黔(キン・ケン)州中国・・・黔(くろい・くすむ)=黒+今
  唐初の重臣
  鮮卑系・・・鮮卑=紀元前3世紀〜6世紀
  ↓↑       中国北部に存在した
           遊牧騎馬民族
           五胡十六国時代
           南北朝時代に
           南下して中国に
  ↓↑       北魏などの王朝を建てた
  貴族の名門出身
  妹は唐の太宗の
  文徳皇后
  太宗が秦王時代に
  兄皇太子
  建成・・・・・・・建(たける)成(なり・なす)
  と激しく対立した際
  その決断を促し、
  玄武門・・・・・・玄武(亀+蛇)の門
  のクーデターを決行
  太宗の元勲となった」
 「唐の国史、実録や儀礼、本草、律疏
  などの編纂を監修
  則天武后
  の台頭により
  忌まれて・・・長孫無忌の
  ↓↑    「忌=キ・いむ・いまわしい
         いやなこととして避ける・恐れはばかる
         「忌諱 (キキ・キイ) ・忌憚 (キタン)
          忌避・禁忌・嫌忌・猜忌 (サイキ) 」
         死者の命日
         「忌日(キニチ)・遠忌 (オンキ)
          年忌(ネンキ)一周忌・桜桃忌・三回忌」
         喪に服する期間
         「忌中・忌引(キビキ)
          忌服 (キブク)・満忌(マンキ) 」
         「忌忌 (いまいま) しい」
         「忌=いむ」
         「信仰から避けるべきコト、モノ」
         「嫌う・いやがる・憎(にく)む
          許しがたく嫌う」
  ↓↑     「親や祖先などの命日(死んだ日)」
         「うやまう(尊敬する)」
         「いましめる」
         「用心する」
         「気をつける」
         「控え目にする」
         「注意する」
         「禁止する・忌諱(イキ)」
  ↓↑     「過ちを犯さないように叱る」
  黔 (ケン) 州
  に流され、死没」
 「唐朝の元勲
  長孫氏は
  北魏帝室の支流
  父の
  長孫晟(セイ)は・・・晟=日+成
              =あきら・てる・まさ
               ジョウ・セイ
  隋の将軍
  妹は
  唐の太宗の皇后
  太宗朝で勲功第一
  尚書・門下の二省の長官を兼ね
  三公の位に進んだ
  立太子問題で
  皇后の実子
  李治(高宗)を推し
  太宗の遺詔によって
  高宗を輔政したが
  高宗の
  則天武后の冊立に反対し
  武后派に謀反ありと告発され
  黔(ケン)州
  (四川省彭水県)に流刑
  現地で自殺を強いられた
  宰相として
  「五代史志・永徽律令」
  の編纂を監修した」
 「「後漢書・志」は
  晋の
  司馬彪(シバヒョウ・?〜306頃)の
  「続漢書・志」
  「隋書」のそれは
  唐の
  長孫無忌(?〜659)の
  「五代史志」で補われている」
  ↓↑
 ・・・「長孫無忌=長(おさ)の孫(まご)無(なし)忌(いむ・己+心)」・・・「長孫無忌」は「古事記始原」の人物かも?・・・
ーー↓↑ーーー
 6月27日火曜日
  ↓↑
 NHK教育(ETV)
 先人たちの底力 知恵泉
 邪馬台国はどこにある?
 古代ミステリーを楽しもう
 前編
 古代史“最大”の謎、
 邪馬台国のミステリーを題材に、
 歴史の楽しみ方の知恵を探る。
 九州説、畿内説、四国説、
 さらには
 沖縄にある
 卑弥呼の海底神殿まで、
 想像の翼を広げる。
ーー↓↑ーー
 長孫無忌
  ↓↑
 唐朝の元勲・長孫氏は
 北魏帝室の支流
 父の長孫晟(せい)は
 隋の将軍
 妹は唐の太宗の皇后
 太宗の片腕として活躍し
 太宗朝には勲功第一とされた
 尚書・門下二省の長官を兼ね
 三公の位に進んだ
 立太子問題では
 皇后(妹)の実子
 李治(高宗)を推し
 太宗の遺詔によって
 高宗を輔政したが
 高宗の
 則天武后
 冊立に反対し
 武后派に謀反ありと告発され
 黔(ケン)州(四川省彭水県)に流刑
 現地で自殺を強いられた
 宰相として
 《五代史志》
 《永徽律令》
 の編纂を監修した
  ↓↑
 唐律疏議30巻
 長孫無忌らの
 奉勅撰
 《唐律》12編500条(502条)
 の各条にわたって
 字句の解釈をほどこすとともに
 疑義の生じそうな条には
 適用に関する問答を付して
 唐代のみならず
 中国刑法史
 の研究上に重要な書
  ↓↑
 長孫無忌
  ↓↑
 隋の右驍衛将軍
 長孫晟
 (長孫熾の弟)
 の子
 長孫氏は
 献帝(拓跋鄰)のときに、
 その兄を
 拔拔(拓跋)氏とし、
 後に
 漢化して・・・・・・漢字化?
 長孫氏に改めた・・・長孫=拓跋・・・
           長(おさ)の孫(まご)の開拓、抜擢
 北魏の
 道武帝・・・・・・・道の武帝
 により
 宗室の長とされ、
 関隴集団中において・・・関隴=武川鎮軍閥
  ↓↑            南北朝時代の
                西魏・北周
                隋・唐
                の支配層を形成していた集団
             則天武后に
             唐王室の李一族など
             北朝以来の貴族勢力である
             関隴集団=長安付近に土着した
             鮮卑系貴族、陝西省・甘粛省の
  ↓↑         出身貴族を一掃された
 貴顕中の
 貴顕とされる一族の門地
 609年
 父の死後
 異母兄の
 長孫安業
 と折り合いが悪く
 母方の伯父の
 高士廉
 を頼った
 長孫無忌は
 学問を好み、
 文章
 史書
 に通暁
 617年
 唐の高祖
 李淵
 が
 太原で起兵して
 長安を奪うと
 長春宮で謁見を受け
 渭北道行軍
 典籤・・・・・典籤=文書の処理係
  ↓↑    籤=くじ・おみくじ・ふだ・占いのふだ
        抽籤・当籤
        うらなう・ためす
        かずとり・ものを数えるときの竹の棒
        くし(串)・物をさし通す竹ぐし
  ↓↑    籤=ひご=肥後・庇護・蜚語・卑語
             熊本       卑弥呼
        流言飛語・流言蜚語=根拠のない情報、風聞
        牙籤(ガセン)・抽籤(チュウセン)
  ↓↑    当籤(トウセン)
 に任じられ
 李世民
 の征戦に従軍
 比部郎中
 に累進
 上党県公
 に封ぜられた
 626年
 玄武門の変
 房玄齢
 杜如晦
 らとともに
 襲撃の計画を定め
 李世民が皇太子となると
 その功績により
 太子左庶子に昇進
 太宗(李世民)の即位後、
 左武候大将軍
 627年
 吏部尚書・・・式部卿、参議・文官の長官
        吏部(りぶ)は六部の一
        文官の任免・評定・異動などの人事を担当
        後漢のときに吏曹が設置され
        尚書常侍曹と改められた
        魏晋南北朝時代より吏部と称され
        隋唐、五代十国では
        尚書省のもとで六部の首位
        に置かれた尚書は長官
 に転じ
 功績第一として
 斉国公に進封
 唐の元勲・外戚として礼遇を受け
 内廷に自由に出入りできた
 同年
 尚書右僕射・・・右僕射=右大臣の唐名
 ↓↑
 唐は
 突厥の
 頡利可汗・・・・・・・頡利・・・蒼頡は漢字の発明者
                 歯通目医者?
 と盟約を結んでいたが
 突厥の内紛にともない
 突厥を
 攻めるように
 勧める臣下が多くなり
 太宗は
 蕭瑀
 と
 長孫無忌
 に突厥に対する政策を訊ね
 蕭瑀は
 「攻撃するのがよろしい」
 と答え
 長孫無忌は
 「来るのを待てばよろしい
 (盟約をこちらから破る必要はない)」
 と答えた
 太宗は長孫無忌の答えに
 「善し」としながら
 実際には兵を出して
 突厥を攻め取った
 ↓↑
 長孫無忌の権寵が重すぎ
 これを抑制するよう
 進言する者もいたが
 太宗は
 長孫無忌を信任して重用
 長孫無忌は
 諸臣の嫉視をおそれ
 長孫皇后を通じて
 太宗に働きかけ
 僕射
 の地位を退き
 開府儀同三司
 となった
 633年
 司空・知門下尚書事
 に任命され
 これを断った
 高士廉
 は外戚が
 三公の地位にあることはよくないと
 進言したが、
 太宗は
 長孫無忌を
 司空とすることにこだわったが
 長孫無忌が固辞し
 太宗は許し
 威鳳賦を作って賜り、功績を讃えた
 趙州刺史となり、
 趙国公に改封され
 のちに司徒に進んだ
 ↓↑
 643年
 功臣として
 凌煙閣・・・唐の中国統一に貢献した功臣24名
 ↓↑    貞観十七年(643年)二月二十八日
       唐の太宗が
       西京宮城東北の凌煙閣に
       画家の
 ↓↑    閻立本に功臣の絵を描かせたのが由来
 に列せられ
 位は二十四人の中で筆頭
 ↓↑
 太宗の長男で皇太子の
 李承乾
 が廃嫡され
 第九子
 (長孫皇后の子としては第三子)
 晋王、李治
 を皇太子とすることに成功
 李治を後継ぎに推したのは
 第四子
 (長孫皇后の子としては第二子)
 の
 魏王、
 李泰よりも
 李治のほうが
 長孫無忌にとって
 御し易いという目論見から・・・
 長孫無忌は
 太子太師・同中書門下三品となった
 同中書門下三品の地位は
 このときに始まる
 太宗によって
 高句麗遠征(唐の高句麗出兵)
 がおこなわれると、
 侍中を兼ね
 帰還すると、
 太子太師を退き
 揚州都督を遙領した
 649年
 太宗の臨終で
 李治の後見と輔政を託され
 高宗が即位すると
 太尉に進み
 中書令を検校し
 門下省
 と
 尚書省
 を領知した
 三人の子はみな
 朝散大夫・・・唐の従五品下の雅名
 ↓↑     665年
        唐の
        朝散大夫-沂州司馬上柱国の
        劉徳高が戦後処理使節として来日
        3ヶ月後に
        劉徳高は帰国・・・?
 ↓↑     白村江の戦い(天智二年八月・663年10月)
        天智天皇二年八月二十七日〜八月二十八日
        (グレゴリオ暦663年10月7日〜10月8日)
        (ユリウス 暦663年10月4日〜10月5日)
         663年癸亥
         010月辛酉
 ↓↑      004日戊申水曜日仏滅
 となった
 ↓↑
 武昭儀(武則天)が
 高宗の男子を産んだため
 これを皇后に立てる議論が起こったが
 長孫無忌は
 武氏立后に反対し
 数度にわたって
 高宗に諫言したが
 高宗に聴きいれられず
 655年
 武氏が皇后として立后
 657年
 褚遂良
 来済
 らが謀反を誣告され左遷
 長孫無忌は宮廷で孤立
 659年
 許敬宗
 が
 李奉節
 らに指示して
 朋党事件
 をでっちあげ
 その黒幕を
 長孫無忌
 として
 高宗に訴え
 高宗は
 許敬宗の弁舌に説得され
 長孫無忌の官爵を削って
 黔州(貴州省)に流した
 許敬宗
 や
 李義府
 がさらに
 彼の謀反を訴え
 長孫無忌は配所で
 首を吊って自殺
 674年
 官爵をもどされ
 孫の
 長孫元翼・・・長の孫の元の翼→翼の生えた虎=天武天皇
 が爵位を継いだ
 ↓↑
 長孫無忌は
 唐律疏義
 隋書
 の編纂者
 ↓↑
 伝記資料
 『旧唐書』巻六十五
 列伝第十五「長孫無忌伝」
 『新唐書』巻一百五
 列伝第三十「長孫无忌伝」
ーーーーー
 讜=トウ・・・・・唐・問=とう=答・当・等
   正しい言葉・よい言葉
   道理に合う・正直である
   そのような言葉・直言
 讜
 言+黨・・・・黨=党
 言+龸+口+鄢
 言+⺌+冖+口+鄢
 言+龸+口+口+丷+礀+二+灬
 「龸」の構成文字
    学覚労栄営
 龸=𦥯→學
 龸=𤇾→螢
 ↓↑
 党 堂 常 掌 棠 䟫 甞 當 裳 隚 嘗 嫦 賞
 瞠 償 蟐 螳 糛 襠 礑 簹 鏜 蟷 鞺 黨 鐺
 儻 鑜 鼞 鱨 讜 钂 牚 傥 礃 㒉 嚐 艡 㼕
 憆 赏 䣘 擋 鏿 橖 镗 灙 饄 瓽 龦 嘡 罉
 㜭 尝 谠 䉎 撐 鏛 樘 漟 瑺 鲿 儅 㗬 坣
 譡 㽆 戃 蹚 䣣 攩 鐣 檔 闛 爣 饓 偿 矘
 㑽 噹 膛 㦂 龸 幥 贘 撑 橕 镋 澢 璫 劏
 㙶 壋 㿩 摚 鎲 曭 欓 闣
 ↓↑
 党=龸+兄
 當=龸+口+田=当
 儻=トウ
   あるいは・すぐれる・もし
   すぐれる・すぐれている
 棠=トウ・ドウ
   からなし・やまなし
   やまなし・からなし
   バラ(薔薇)科の落葉小高木
   「棠棣(トウテイ)」は
    にわうめ(庭梅)
    にわざくら(庭櫻・桜)
    バラ(薔薇)科の落葉低木
   「海棠(かいどう)」は
    バラ(薔薇)科の落葉低木
 常=ジョウ・・・尋常小学校
   つね・とこ
   つね・いつまでも変わることがない
   つね・いつも・ふだん
   あたりまえ・なみ・普通
   はた
   日月や竜などを描いた天子の旗
   長さの単位
   一常=尋(八尺)の二倍
   とこ
   いつまでも変わらない
   永遠に変わらない
   などの意を表わす接頭語
   「つら・とき・ときわ・のぶ・ひさ・ひさし」

 龸(𦥯)学(學)觉(覺)黉(黌)
 单(單)弹(彈)婵(嬋)冁(囅)
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 专(專)
 传(傳)
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