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2018年04月26日01:31

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ガンというものは全てを破壊する出来事である

※最初に言っておくけど、俺はこの日記でありのままを書くから 気分を害するとか体調に良くない
とかいう人が居たら見ないでね。

忘れもしない、6年前の夏だったかな。俺は部屋でPCゲームをやってたけど、突然母親が「お父さんが脇腹が痛い」ってと言ってきた。

時間は深夜1時くらいで、とりあえずタクシーで3人で救急病院へ 診察してもらったら、応急措置

しかできないと言われた。俺は「あーこの救急センターはだめだ」と思って、受付の人に違う病院

に行ってくださいと言われて病院名は書かないけど、そこに行った。色々検査をしてる間に 寝ころんで
いたら何時の間に寝てた。んで、起こされてご家族の方も一緒にということで診察室へ。何か病気

なのかなーって思ってたけど、医師の言葉に正直言うと頭が真っ白に。診断名は「食道ガン」ですと。

え?俺は耳を疑った。親父も母親も、ショックで何も言葉が出なかった。俺は、TVでガンは治る時代

というのを知っていたけど まさか親父がガンとは・・・次の日くらいから、毎日お通夜みたいな毎日

笑顔のえの字もでなかった。親父は会社で、健康診断をちゃんと受けていて何も問題はないと

言われてたんだよ。なのに、何故にガン?嘘であってほしいと思ったけど 親父は治したいという

気持ちに溢れてた。その時俺は、親父を励ますのと同時に俺も戦うからという意思表示の為に

手紙を書いた。家族会議を開いて、俺が考えたのはガンの専門病院が二俣川にあるという事を

ネットで調べて行ってみる事に 最初の診察の時くらいの記憶はあんまり覚えてない。ただ、

医師に俺が「末期ですか?」と聞いてみたら「半年後、元気だったら凄いです」という見解だった。

俺は絶対に治すと決意したから朝5時くらいに起きて、バイクの後ろに乗せて病院に6時半くらいかな
着くように。採血が朝7時だったから、それに間に合うように何時も行ってた。朝早いから、病院の
店で赤飯のおにぎりを毎回食べて 診察が始まるまで時間があるから長椅子で寝てた。診察が

近づくにつれて患者も多くなって迷惑になるから起こしてもらって診察してもらう 何度も繰り返したよ。
雪が降った時は、電車とバスを使って行ったし あの時は無我夢中だったなー。俺も調子が良くない
状態だったから、一度親父にキレた時がある。バスに乗ってて苦しくなったからって、病院に着いたら
親父が「早く来い」と言ってきたから「俺、調子悪いんだよ」と・・・。それで、ガンセンターで入院が

決まり抗がん剤治療が始まった。元々親父はハゲてたから髪の毛が抜けるとかはなかったけど

治す気満々だったから 俺も治るって信じてた。神社にもお参りしてお願いごとを一緒にしたし

伊勢原にある大山まで、俺一人でお守りを買いに行ったし、本当に治ると思っていた。てか、

治ってほしいというのが俺の願いだった。でも、病院で言われたのが 家から近い所の病院へ

行ってくださいとの事。紹介状を書いてもらって、そっちの病院へ入院した。6人部屋だったかな

TVを見るカードを買って、土日になると少しでも気がまぎれるように金曜日の夕方にスポーツ

新聞を買って、親父に渡して予想しといてって言って。入院して、何一つ楽しい事ないから何時も

土日は競馬をしてたから 少しでもいいから気休めでもと思ってね。その時、面会すると何時も

親父は笑って「来てくれたのか」と(涙)自分の病気を分かっていながら 何故に笑顔が出る?

その笑顔に泣きたかったけど涙は見せちゃいけないって思って 泣かなかった。CTの検査で

病院から1時間くらいかかる所の専門の病院みたいな所まで電車で親父と一緒に行った。

2時間くらいかかって俺は待ってた。んで、入院してる病院まで戻って。とりあえず、正月を無事に

迎えて とりあえず、年内は大丈夫だったと安堵してた。このまま、最低でも10年は生きてて

欲しいって思ってた。そのあとに、ガンが転移してるって言われたのかなぁ 何時言われたかは

覚えてないけど 不安でしょうがなかった・・・。でも、治ると信じてたから。そのあとに、担当の医師から
今度、ご家族の方に話をしたいのでということで 親父は、ベッドで休んでて 俺と母親と姉ちゃん

の3人で話を聞いた。その時、初めて親父が死ぬかもしれないと思ったのかなぁ。医師からは

「今の状態だと、突然 病変する事があります」とだけ言われた。だから、親父の方の兄弟と親戚

母親の方の兄弟親戚に連絡して 親父のお姉さん二人と旦那さんが見舞いに来てくれた。母親

の方は、母親のお父さん(俺のおじいちゃん)の兄弟の人が来て遠くから来てくれて 親父は

笑顔で喜んでた。でも、俺と母親と姉ちゃんは違ったけど・・・・。あと何日 何年生きていられる

んだろうと俺は思ってた。でも、生きてて欲しい 絶対に治ってほしいって思ってた。食事も、

普通のご飯は食べられずに エンシュア?という飲み物か食べ物か分からないけどマズイという

物を毎日。大好きだった酒は、もちろんだめだけど。飲みたかったんじゃないかなーって思ってる。
洗い物とかの洗濯物を親父からもらって、家で母親に洗濯してもらって また病院に届けたり

面会すると何故か、親父が笑顔だったんだよなー。辛いはずなのに、なんで笑顔になるんだろう?と
思ってたけど。それを何回も続けてて、今思うと結果的に亡くなる前日だとは夢にも思ってなかったんだけど
弱ってる親父が、ベッドの上で声が出せない状況で「タクシーで家に帰りたい」と初めて弱音を

吐いた。その時は、次の日親父が死ぬなんて思ってなかったから 「そうだねー家がいいよね」と

話をしたんだ。でも、俺はその日の夜23時頃かなー何か胸騒ぎがして病院へ面会に行ったんだ

夜遅かったから携帯で病院に電話したら「夜なので面会はできません」と断られた。しょうがないから
家に帰って寝たんだけど、ついに最悪な日に・・・朝7時くらいだったかな病院から電話があって

「急変したので至急病院に来てください」と俺は、母親にすぐに準備して出れるようにしてって

言って俺も急いで準備してバイクで速攻行った。んで、病室で横たわってる親父の姿が飛び込んできた。

これは、今でも鮮明に覚えてる。母親は「お父さん」を連発。俺は、「親父、返事してくれ!」って

何度も何度も何度も・・・泣きながら。看護師さんたちは、病室から出て 医師と一緒に3人で

親父の前で 着いた時にはもう親父は死んでいた。そのあと、医師から「確認をお願いします」

と言われて時間の確認をして、医師から「午前8;45分、ご愁傷様です」と・・・。平成25年

6月6日 午前8:45分永眠 享年69歳。俺と母親は、病室の外に出て 俺は姉ちゃんと親戚に

電話した記憶がある。姉ちゃん家族が来るまでは、看護師さんたちが亡くなった親父の事を

綺麗にしてくれて 姉ちゃんたちが来て ベッドの上の親父を見て全員で泣いてた・・・。そのあと

通夜はやらずに、葬儀の準備の為に電話で葬儀会社に連絡して、霊きゅう車が病院に着いて

医師と看護師さんたちに頭を下げて、葬儀会社に一日遺体を預けて 次の日、葬儀会社に

行って冷たくなった親父の頭を俺は触った。人間って死ぬとこうなるんだなーって死んだ後も

俺に教えてくれたんだexclamation ×2次の日、葬儀をしたけど 両親の兄弟と親戚20人くらいだったかな

集まってくれて 火葬をしてもらって骨を骨壺に入れる時に「あごの骨が凄い大きいね」って

そのあと、集まってくれた親戚一同に俺は喪主じゃないんだけど母親が人前で話すのが苦手だから
俺が代わりに、感謝の気持ちを伝えたんだけど 自分では何を言ってるか分からないくらい

動揺してて・・・。でも、大変だったのはこの後からだった。役所で死亡届を出したり、銀行へ

連絡したら戸籍謄本を持ってきてくださいと。それと、姉ちゃんの印鑑も必要だの 両親共に

山梨出身だから、山梨の役所に生まれた時からの戸籍が必要だからとか 長男としてやらなきゃ

いけない事全てやったよ。これも無我夢中だったけど。親父の法要で、田舎の寺で集まって

くれたんだけど ひと段落して、皆話してる時に親父の悪口を言う人が居て、俺は黙ってたんだけど
姉ちゃんが怒ってて「お父さんの事あんなふうに言わせてていいの?」って聞かれたから俺は

「言わせておけばいい」と 許せない気持ちはもちろんあったけど 親父が見ててくれるから

親父の為に怒ってはいけないってね。その後、母親のお姉さんから電話があったんだけど

色々言われてて もう我慢の限界で、電話変わってもらって 恩着せがましい事ばっかり言うから

「ふざけるな!」と言ったら、向こうが怒ってたから 俺もキレて「縁でもなんでもキレ」って。

それ以来、一度も電話来ないけどね。ガンって本当に全てを破壊するものだと俺は思ってる。

健康診断とかも疑うようになったし、ガンになったら終わりだーとも思う。 ここに書いてある全てが
身内の死というもの。人が死ぬという事はこういうもの。二度と会えない悲しみは何時かは消える

けど実際に身内を亡くした事実は永遠に消える事がないっていうこと 読んでくれた方が、命の

尊さを感じてくれたら俺はそれで満足です。長い文章になったけど、読んでくれた方には感謝

します。ありがとうございました。
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