mixiユーザー(id:350761)

2016年06月26日23:32

1517 view

入会山行3 レイライン上の雲母山

連理の枝のシイの木の前からさらに参道を南に向かうと、
左手に拝殿の向いている方向に下って行く石段があった。
どうもこの石段の下が社頭で、自分が入って来たのは裏参道だったようだ。
ただし、石段と拝殿の軸は一直線ではなく、ズラしてあり、
3mほどの高さの石垣の上に祀られている拝殿へ上がる石段は
10m以内だが、少し南に位置している。
石垣の拝殿は瓦葺入母屋造平入りの社殿で
木部、石造部、ともに錆色に染まっていた(写真左)。
拝殿の石垣下に掲示された案内書『式内 久麻久神社』にはこうある。

「   所在地 西尾市八ツ面町麓77番地
     祭神 大雀命(おおささきのみこと)・須佐之男命・熱田大神 外六柱

 当社の創建は古く明確でないが、延喜式神名帳所載の古社で近郷17か村の総氏神として崇敬されていた。旧久麻久郷は、崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より久麻久連(くまくのむらじ)一族が開拓したと伝えられ、その産土神が本社である。
 文武天皇の大宝年間(701〜4)に須佐之男命を新たにお祭りし大宝天王宮と称した。その後、八ツ面山の西麓、荒川城の城主〈荒川甲斐守義弘〉これを崇敬し、堂宇を再興し〈荒川大宝天王宮〉と称した。荒川氏歿後、徳川家康は家臣の鳥居元忠に現在地へ奉遷させたと伝えられる。明治元年社名を旧名〈久麻久神社〉に復した。本殿は室町時代後期の代表建築とされ、国の重要文化財であり、ご神像の牛頭天王像は藤原時代の作で県下最古のもの。また古い木製や陶製の狛犬も有名である。」

案内書には肝心の主祭神、大雀命(オホサザキ)に関して何も書かれていないが、
大雀命は三河では少なくとも15社で主祭神として祀られており、
そのうち14社は若宮八幡社だ。
「若宮八幡社」の意味は
「八幡大神(応神天皇)の若(息子=仁徳天皇)の宮」なのだろう。
若宮八幡社のほとんどと久麻久神社が文武天皇の代に祀られているのだが、
文武天皇と仁徳天皇間に特別な関わりは見当たらない。
「大雀命」が「仁徳天皇」の別名となると、
仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は八ツ面山のフィギュアなのか。
ちなみに両丘陵の寸法比較は以下。

・ 八ツ面山=最大丘陵長:約650m 高さ:約59m
・仁徳天皇陵=最大墳丘長: 486m 高さ: 35.8m 

大仙陵古墳を仁徳天皇陵とするのは『日本書紀』に基づいているが、
『古事記』、『延喜式』ともに地名と陵名は相似だ。

      〈地名〉
・ 古事記 毛受之耳原(もずのみみはら) 丁卯の年(ひのとう:西暦427年?)8月15日に83歳で崩御
・日本書紀 百舌鳥野陵(もずののみささぎ) 仁徳天皇87年(西暦399年)1月16日に崩御
・ 延喜式 和泉国大鳥郡 陵名:百舌鳥耳原中陵

いずれも畿内であり、仁徳天皇が三河と関った記録も存在しないので、
八ツ面山が自然の山を利用した仁徳天皇陵であるとは考えにくい。
久麻久連に関しては
『西尾市観光協会』の公式ウェブサイト(http://www.240kanko.com/)に
「京都丹後半島与謝の国よりこの地に来て開拓し」とある。
だが、丹後与謝群に久麻久連の情報は見当たらない。
久麻久連の情報自体が久麻久神社関連のものしか見当たらないのだ。
しかし、

久麻久=クマク=高麗来(高句麗から渡来)

と考えると、丹後市丹後町の「久僧(きゅうそ)」という地名が気になった。

久僧= ク ソウ
   高句麗 僧侶

聖徳太子の師であった高句麗僧恵慈(えじ)との関係が気になったからだが、
丹後と恵慈が直接結びつく情報も見当たらない。

拝殿の北側に廻ると、粗い石を積んだ石垣の上にごつい玉垣を巡らせた
瑞垣内に銅板葺流れ造三間社の本殿が祀られていた。

フォト

素晴らしい社殿だ。
木部はあまり見たことのない樺色で心材を使用していて、
耐久性の高い社殿だと思われる。
多数派の白肌の素木を使用した室町時代の建造物は
かなり古びて埃っぽく見えるものだが、この本殿は輝いて見える。

本殿の南脇に、かなり旧いものと思われる
文字が刻まれているとは思えない石碑があった(写真中)。
この石碑と関係のあるものと思わなかった素木の柱碑が、
石垣の真下にあって、それには「雲母山碑銘」と墨書きしてあった。
だが、現場ではその意味も、石碑と木柱碑との関連も意味が解らなかった。
ところが調べてみると、「雲母山」とは
ここ「八ツ面山(やつおもてやま)」の旧名であることが判った。
「雲母山」の名の由来はこの山が雲母の産出地だったからでだという。
『西尾市』の
公式ウェブサイト(http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/1,html)に
雲母山碑を建立した人物が紹介されていた。

「西尾市・幡豆郡周辺の中世の荘名である〈吉良荘(きらのしょう)〉は雲母(きらら)の産出に由来するといわれる。『続日本紀』に和銅6年(713)5月7日『大倭(やまと) 参河をして並に雲母を献(たてまつ)らしむ』とあり、《和漢三才図会》に『参河雲母山に多く出て良く』とあることから、古くから良質の雲母の産地であり、江戸時代には雲母は西尾藩の専売品ともなった。八ツ面山は古くは雲母山、吉良山などと称し、雲母の採掘が特に盛んに行なわれたが、当地の雲母採掘は明治33年の崩落事故を契機に終焉し、昭和に入ると採掘坑も転落事故の危険から、この1基を残して埋め立てられた。[雲母山碑]は西尾藩医の松崎明(雲母山人)が文化10年(1827)に久麻久神社拝殿南に建立したもので、雲母採掘の様子を表わした漢詩が刻まれている。」

「参河」とは「三河」のことだが、吉良の仁吉(清水次郎長の子分)や
吉良上野介の姓の語源が雲母(きらら)だったとは。
もうひとつおどろく情報があった。
東州斎写楽の代表作のひとつ『三代目大谷鬼次の奴江戸兵』(図版右)の背景には
ここ八ツ面山で採取された雲母が使用されているとのことだ。
久麻久神社に須佐之男命と熱田大神(草薙の劔)が祀られていることから、
「八ツ面」を「八ツ頭」、つまり「ヤマタノオロチ」と解釈する説がある。
そして、ここ八ツ面と同じ熱田大神(草薙の劔)の祀られた熱田神宮と
尾張一宮である真清田神社(ますみだじんじゃ)が
一直線上に並んでいることが判っている。

フォト

文武天皇の代に『日本書紀』の内容に合わせ、
久麻久神社に須佐之男命と熱田大神を結びつけたことから、
山名が「八ツ面山」に変更された可能性があるが、
もともとの「八ツ面」とは
雲母の八面体に由来するものという説の方が納得がいっている。
1 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する