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2018年09月19日20:28

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別れ惚れ

 彼女に最初に出会ったのは、2014年の初夏だった。狭苦しい事務所に入ってくる彼女を見て、自分はあまりよい第一印象をもたなかった。ロシア人だということに興味を抱いたが、いやに騒々しい女だなというところであった。数年前まではちょっとした美少女でとおったであろう容姿には、二十代半ばを折り返した白人女にありがちな衰えが既に目についた(彼女自身もそれに気づいていた)。しかし、アジア学の修士課程を終えたばかりで、学問に興味がありそうな様子があった。日本に関心を持っているようでもあった。外交官になりたいとか、ワシントンDCで仕事を見つけるつもりだとかという大きな希望を述べ立てるのだが、どこまで本気なのかは判断がつきかねた。それでも、それが容姿の衰えを補って余りある少女っぽい若さを彼女に与えていた。半信半疑ながら、僕は次第に彼女とうちとけて話をするようになった。実際、彼女は自分にとって事務所では唯一の退屈しのぎの相手になったのである。
 臨時雇の助手として彼女が受付に腰を据えて以来、事務所は妙な性的緊張に満ちはじめた。あのとっくに枯死しているような所長さえが少し活気づいているように見えた。誰もが何やかやと理由をつけては彼女に触れることを欲した。まるでそうすることで彼女の若さを吸い取ろうとしているみたいだった。最初、自分はそんな光景を冷ややかに眺めて、絶対に仲間入りはすまいと心に決めていた。彼女は彼女でそんなことには頓着せずに、誰とでもざっくばらんに付き合った。いつも好色な目で彼女を見ている副所長に、彼氏とのいざこざについて大声で相談している彼女の声を聞きながら、僕は眉をひそめた。
「きっとこの女は誰にでも愛想を振りまいては、ちやほやされて来たんだろうな。女に恵まれない大学院生あたりにはこれでも掃き溜めに鶴で、その立場を最大限利用しているのさ」
 心の底ではそう思ってはいたが、彼女は、そんな意地の悪い考えを持つ者にとってさえも、確かに魅力的な話相手であった。口先ばかりで中身がないようなことしか言わないように見えて、なぜかそのはったりが彼女にはとても似合っていて、いやみにならずに無邪気に見えた。しかし、どういうわけだが、僕にだけは彼女は何か遠慮があった。自信過剰の「男たらし(コケット)」にしては、ときどき少女っぽいはにかみのようなものを見せた。どこかに男たらしに似つかわしくない生真面目を見せた。というより、知性的な人間に対する敬意や思いやりみたいなものがあった。その遠慮の仕方が、アメリカ生活に倦んでいた僕にはちょっとアジア的な美点に近いものとして新鮮に感じられた。彼女のこのはにかみは、次第に僕の警戒心を解いた。それに、はにかみ屋の若い女性のナイーブさをからかう誘惑に、どんな男が抵抗できるというのだ。不思議なことに、僕の意地悪な気持ちには気づかずに、彼女もまた僕に遠慮しながらも、話をしたがっているようなところがあった。そういうわけで、僕たちはときどきあまり深くない会話を交わす仲になった。
 彼女が僕に何かしらの関心を抱いた原因は、僕が最初に彼女に関心を示したためかもしれない。彼女が働き始めたばかりの頃、こんなことがあった。事務所が留守にならないように、僕たち二人は交代で昼食をとりに行くことになっていた。ある日、昼食に行った彼女から電話があり、事務所の冷房がきつすぎて気分が悪くなったので、ちょっと大学内の診療所に寄るとのことだった。事務所ではあまり機嫌がよくない僕は、この知らせに冷淡に応対し、すぐにそれを後悔した。そして、彼女に対する軽侮に似た気持ちに気付かれたんではないかと心配になった。小一時間ほどで彼女は戻ってきたが、罪滅ぼしの気持ちから自分はちょいと親切をしたくなった。
「ジンジャー・ティーががいいよ!体があったまるから!」僕は大声で言った。「今すぐ買ってこよう!」
 しかし、彼女はジンジャー・ティーは好きではないらしかった。遠慮したあとで、「じゃあ、カモミール・ティーをお願い」と言った。
 悪いことに夏のマイアミ特有の夕立ちが来た。降り始めた土砂降りのなかを僕は構内のスターバックスまで走る羽目になった。カモミール・ティーを手に、濡れネズミになって戻った僕に、彼女は礼を言って代金を払おうとしたが、雨のせいで自分の親切がいやに過剰なものになってしまったことに気づいた僕は、きまりが悪くて仕方がなかった。
「まあ、たまには僕たち男どもにも英雄気取りをさせてくれよ」
 自分もこれで助べえなオヤジ連中の仲間入りかと思うと腹立たしかったし、そう思われるのは不本意だった。しかし、これが彼女の心から僕に対する遠慮を少しく取り払ったことは確かだった。
 彼女の雇用期間は数か月だけだった。その数か月のあいだに、われわれはそこそこ親しくなったが、友人になったわけではなかった。当時の僕の心はいろいろなことで煩わされていて、彼女が占めることのできる余地はほとんどなかった。職場以外の場所で彼女とすれ違っても、声を掛けられるまでは気づかないほどだった。
 彼女の最後の出勤日には、僕らの勤める「研究所」主催の催しが構内のどこかで行われることになっていた。所長、副所長を始め、準備のため皆午前中からどこかに出払ったが、いつもの通り僕はどこで何が行なわれているかも知らされずに、事務所に残っていた。彼女は僕と一緒に残っていたが、午後三時頃には事務所を出て行った。一体、彼らが事務所に戻ってくるのかどうかも知らされなかったが、もう僕はこうしたことにはすっかり慣れてしまっていて、いっさい注意を払わなかった。去り際に、彼女と別れの挨拶をしたかどうかも覚えていないが、おそらくしなかっただろう。僕はそんなことはすっかり忘れてしまって、一人になったのをよいことに、その午後は自分の仕事に没頭した。研究の時間が惜しかった。
 夕方、一服のために外に出た。キャンパスが全面禁煙になったおかげで、広い構内を横ぎって、隣接する公園まで歩かなければ、煙草に火を点けられない。まだ、勤務時間中であったが、客が訪れることも滅多にないし、恐らく事務所の連中も戻ってこないだろうと踏んだのだ。だが、事務所に戻ってドアを開けた時、誰かが僕の椅子の後ろに置かれたキャビネットの前にしゃがみこんで何か書類をひっかきまわしているのに出くわした。彼女だった。
「なんだ君か。びっくりさせるじゃないか」
「やることがまだ残っていたから…」と彼女は振り向きもせずにぶつぶつと答えた。
「戻るなら戻るってひとこと言っといてくれれば…」
勤務時間中に事務所を閉めて一服しに行った不意を衝かれたことにやましさを感じて、こう言いかけたが、なんの責任もない彼女に愚痴をいうことになるのでやめた。
 僕は椅子に腰を下ろしたが、すぐ後ろで何ごとかをしている彼女が気になって、仕事を続ける気は削がれた。彼女が帰るのを待つことにした。彼氏と予定しているというインドやらどこかへの旅行についてとりとめのない会話をしていると、事務所に所長が入ってきた。
「お嬢さん!まだ居たんですか!」
所長を見て彼女は少しまごついたようだった。どうやら、彼女はイベント会場で別れの挨拶をすまして黙って事務所へ戻ってきたのだった。
「ちょっとやり残した仕事があったものですから…」
彼女は言いよどんだ。しかし、所長は柄にもなくひどく上機嫌だった。
「まあ、一つ抱擁させてください、お嬢さん。これで一旦はお別れですが、職探しでも何でも、われわれが何かお役に立つことがあれば、知らせてください。是非ともお手伝いさせてもらいますよ」
 彼はこう言いながら、彼女の体に腕を回し、不必要なほど強く抱擁した。そして、僕が皮肉な笑いを浮べているのに気づいたらしい。
「われわれはこのお嬢さんほど美しくはないですが、まあ仲良くやっていきましょう」
 今度は僕に手を差し伸べた。そこには本人も気づかない無意識の皮肉があった。苦々しい思いは避けられなかったが、笑って僕はそのいやらしい手を握ってやった。
 所長が出て行ってしまってからも、彼女は受付の席でぐずぐずしていた。やり残したという仕事は大したものではなさそうだった。僕はやりかけの仕事に手をつけながら、気のない会話を続けた。10分、20分、30分。とうとう彼女は帰るそぶりを見せた。だが、僕のデスクのそばを通り過ぎる際、不意に彼女は言った。
「私、行くわ。ハグをちょうだい」
 それはさりげなさそうに見えてちょっと不自然だったのだが、自分は不意をつかれて言われるままに立ち上がって彼女の体に腕をまわした。その瞬間、彼女はこのために事務所に戻ってきたんじゃないかという考えが頭によぎった。いや、それとも所長にハグを与えて、自分には与えないのは公平ではないと思ったのだけかもしれない。恐らくかなり自分がぎくしゃくとしてしまったことの照れ隠しに、「僕の国ではハグはしないんだよ。握手さえしない。こうやって頭をちょっと下げるのさ」と間抜けなことを言って、お辞儀までしてみせた。うぶな少年みたいに顔が赤くなっていないか心配だったのだ。
 彼女がどんな反応を示したかは今は覚えていない。ただ、去っていく彼女の後姿を見送りながら、彼女が居なくなると自分も寂しくなるな、とふと気がつき、そう気づくことで、本当にその瞬間に寂しさを感じたことは覚えている。
「ラヴ・アット・ラスト・サイトってのは、こういうことか」
苦笑して、仕事に戻った。彼女のことはすぐに頭から消え、再会するまで浮んでくることはなかった。
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