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2018年07月11日18:43

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被災地に「千羽鶴」「寄せ書き」等を、実際に運んでいた経験から

以下のニュースに寄せて、僕は個人的にしつこく話し続けたい。


◆「被災地に千羽鶴はやめるべき」議論が西日本豪雨で再燃 熊本地震で現場はどうだったか、熊本市に聞く
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=5195519


1995年の阪神淡路大震災の折、各地の小学校等から、当地の被災者に向けて、励ましの「寄せ書き」、あるいは「千羽鶴」が送られることが起こった。そして、その寄せ書きと千羽鶴の実物を、物資集配施設から実際に運んでいた一人が僕だ。

1995年1月、僕は大阪から船で駆けつけ、ボランティアの一人として、水道も電気も断たれたままの「神戸市市民福祉交流センター」に泊まり込んでいた。この「福祉交流センター」に、民間・個人の救援物資は届き、そこからボランティアが各避難所に物資を運搬する。ここでのボランティアの主な役目は、まずデタラメに届く救援物資を「仕分け」し、とにかく死蔵にならないよう、なるべく広く、多くの避難所に物資を運び届けることだった。

当時十八歳だった僕が、震災発生から一週間経たないうち、福祉交流センターにたどり着いたとき、ボランティアは僕を含めて七人ぐらいしかいなかった。一方、集積する救援物資は、一階のフロアに何百パレットと詰め込まれており、「これどうすんねん」というのが第一の感想だった。せっかく善意から届けられた物資が、死蔵されてはならないと、われわれは急き立てられ、夜遅くまで仕分け作業を「ついつい」してしまうのだった。そこで、リーダー格がボランティアたちの活動に時間制限を設けるようになり、夜はちゃんと休ませるように管理した。

当初のうち、民間・個人からの救援物資は、実際に救命的なものとして、大いに感謝され、重宝された。冬場のことなので、布団等については、一部露骨な「取り合い」になるケースもあり、大人の騒動に十八歳の僕が仲裁に入らねばならない場面もあった。

これは当時、ライフラインが断絶される震災が、現代日本にとって初めてだったことに加えて、連立政権を組んだ村山内閣の動きがきわめて鈍重だったため、本当に被災地に物資が届かなかったからだ。まだ携帯電話やインターネット環境がなかったということも大きいだろう。実際、人々がどこに避難所を設け、どの物資がどれだけ不足しているかは、ボランティアが直接足を運んで避難所を「発見」し、なんとなくそこにいるリーダー格の人に訊いて回るしか方法がなかった。

僕自身、地割れしたアスファルトを避けながら借り物の自転車を走らせ、小さな公園に生成した避難所を「発見」すると、漠然と、僕はその避難所を「担当」する向きになった。自転車にまたがったまま、「水やお米は足りていますか」と訊ねると、リーダー格の人は、実に申し訳なさそうに、

「そらまあ、足らんといえば足らんな、みんなパンばっかり食うてるけど、お米食べたいわあ言うてるわ」

しかしそのリーダー格の人は、続けて、

「せやかて、みんな困っとるのに、うちだけそんなええもん貰うわけにはいかんやろ」

と辞退する態度を見せる。そこで僕は、

「いいんですよ、実際、こっちには物資が余っていて、抱えたままにするのが一番の無駄になるんです。すぐ持ってきますからぜひ」

と、そこまで言うと、恐縮していた避難所のリーダーも、

「そうか、そういうことなら、ありがたく受け取らせてもらうわ」

と、深々と頭を下げるのだった。

「すまんな、こんな、縁もゆかりもない兄ちゃんに、ホンマすまんけど世話になるわ」

当時の僕は、そうした人々の誠実な態度に直面させられ、「なぜおれのほうが頭を下げられて、おれのほうが偉そうな立場にあるんだ?」ということに、奇妙な焦りと、何かの憤りを覚えていた。この危難の中、なおも自重して頭を下げることを第一にする、底抜けの誠実さを持つ人々と比べて、僕のような胡乱者のガキが、感謝されたり尊ばれたりするのは根本的に「おかしい」。半ば僕は、その不穏なおかしさを吹き払うために、闇雲に急いで自転車をこぎ回っていたような気もする。僕はその一ヶ月間、腹の底に何かの憤りをウオオオと叫びながら神戸を走り回っていた。

震災が起こってから、一ヶ月弱が過ぎたころ、事態は急転し、「福祉交流センター」は陳腐化した。陳腐化はよいことだった。当時の「ダイエー」が物資の解放を英断したこともあり、また行政から物資の手当てが始まったこともあり、個人からの救援物資は、たとえ旧来のように運び届けたとしても、「受け取られはするけれども、すでに緊急の必要性はないもの」になった。通電が恢復し、少し足を伸ばせば自動販売機で飲み物が買えるようになった。

一方で、一部の大学では、特に福祉系の学部において、「震災ボランティアに参加した者には単位を与える」という方策が取られたため、福祉交流センターは明らかに物見遊山の大学生たちでごった返すことになった。この大学生たちは、二日もすると帰るので、人々は次々に来て次々に去り、入れ替わり立ち替わり、福祉交流センターは「誰だか知らない人の集まり」になった。そして個人からの物資はすでに必要とされていないので、もはや精力的に活動する必要がない。

この時期に入ると僕は、毎日入れ替わりに入ってくる大学生の人たちに、物資の仕分けの仕方を説明するだけで日々が過ぎていった。この単位目当ての、物見遊山の大学生たちは、もともとの興味のなさに退屈が加わって、救援物資を無断で開封し、酒宴を始めるということがよくあった。とんでもないモラルのなさに呆然としたが、僕を含め、元からそこにいたメンバーは、「もうほっとけ」というムードで、それぞれがこの場を辞退するタイミングを計るようになっていた。多くの人は、水道が恢復したとき、それを機にこのボランティア劇から去って行ったように記憶している。「もうやるべきことはなくなったから」と。

ちょうどそのころ、救援物資に紛れ込んだ貨物として、主に各地の小学校等から、「寄せ書き」や「千羽鶴」が届くようになっていた。以前から、物資に個人的な手紙が添えられていることはあったが、それとは違う規模の――おそらくどこかのニュースにでも流れたのだろう――寄せ書きと千羽鶴がどんどん届くということが起こってきた。それは今さら、「必要」というものではなかったにせよ、もともと「必要」という理由で届けられるものではないだろうし、むげにしてよいものでもなかったので、僕が自主的に各避難所に運び届けた。

僕は今、何の話をしているかというと、この「被災が起こると千羽鶴が届く問題」について/この問題はテーマとしては有名だけれども、それを直接に運び届けた人はほとんどいないだろう、という点に立脚して、実体験の話をしている。

一言で申し上げるならば、あくまで当時のことではあるが、寄せ書きや千羽鶴を送り届けられた側は、うそいつわりなく「感動」していた。「あくまで当時のこと」と念を押さねばならないが、先の避難所のくだりと同じ、「縁もゆかりもないのに、こんなものまで送っていただいて」と、深々と頭を下げられるのが当時の光景だった。礼儀として頭を下げているのではない。当時のこととしては、それは本当に感動的で、本当に驚きだったのだ。まったく見ず知らずの誰かから、励ましの寄せ書きと千羽鶴が届くというのは。

自転車に千羽鶴と寄せ書きを入れたダンボール箱を積み、避難所になっている小学校に着くと、だいたい校庭近くにいる教職員の方と目が合い、その方は挨拶と用件伺いに来てくれる。そして「寄せ書きと千羽鶴が届いていまして」と話すと、この教職員の方は目を丸くし、感激と共に、あわてて、小走りになって教頭先生を呼びに行く。教頭先生も小走りになってこちらにやってくる。そして実物を手元に広げて感嘆し、深々と頭を下げて、ダンボール箱を腕の中に抱え、荘重に引き取ってゆかれる。その場にたまたま居合わせた新聞記者の方が、昂ぶりと共に、ありったけのフィルムを使って、寄せ書きのすべてをこまかに撮影していったこともあった。

僕が断言してよいのは、そのとき感動しない人は一人もいなかったということだ。もちろん、震災の直後のことであるから、まったく別の由にて、こころが荒んだままの人もいらっしゃったが、それはまた別の話だろう。また、その感動の寄せ書きと千羽鶴も、次第に数が増してくると、感謝されながらも受け取りを断られるケースが出てくるのは当然だった。

「非常にありがたいんですけれども、すでにたくさんいただいておりまして、その、こちらも児童のほうで返事を書かせているのですが、もうこれ以上は手が回らなくて。どうか他の小学校のほうに」

だいたいこのように受け取りを辞退されることが多かった。運び届けた僕の側としても、それはまっとうなことだと思われたし、何しろ僕自身がその実物をハンドリングしているのだから、量的に過剰だというのは僕自身が誰よりもわかっていた(何しろ、どれだけ運び届けても、在庫は「増えて」いくのだ。)。そうした受け取り拒否が生じるのは正直なところ予想の範疇だった。またそうして受け取り拒否されるのは、投げやりに受け取って放置するよりは誠実なことだったと今でも思う。

さて、そのような実体験、もしくはそうした僕の思い出を根拠として、不遜なことを、そのかわり包み隠さず申し上げたい。現在、2018年になって、被災地に千羽鶴を送る側、そしてそうした行為を否定する側の双方に向けて、「時代が違う」と僕は申し上げたい。もしくは、「違う時代があった」と。そして、千羽鶴なんか「送るな」とは思わないし、「送ればいい」とも思わない。ただ「時代が違う」「違う時代があった」とだけ申し上げたい。被災地に千羽鶴を送るという「行事」が発生したのは、確実に阪神淡路大震災の報道以降だから、その実物を直接ハンドリングしていた一人として、今の何がおかしいのかについての私見を申し上げたい。

1995年当時、まだポケベルに、「ベルトモナロ!」の定型文が届くということさえ、われわれは経験していなかった。縁もゆかりもない他人から「メッセージ」が届くという、そのこと自体が、1995年以前はなかったのだ。青春雑誌の文通欄にでも参加しないかぎりは。だから、「縁もゆかりもない誰かからメッセージが届く」という、そのこと自体が感動的で、目新しく、衝撃だった。

今は時代が違う。今は、SNSを通せば、被災の五分後にでも「メッセージ」が届く時代だ。千羽鶴うんぬんは、その行為自体に問題があるのではなく、残念ながら時代遅れになってしまったと言える。最重要の認識はきっと、1995年当時は「千羽鶴を送るしかメッセージを届ける方法がなかった」ということなのだ。そして届けられるメッセージは何だったかというと、被災者の方々に向けて、「日本国民の全員が、あなたがたの危難に肩入れしています」というメッセージだった。これが届いた。

1995年の、阪神淡路大震災で、被災された方々は、皆たくましかったが、同時にそのたくましさ故にか、「また自分たちでなんとかしてみせるさ」という気概でいた。ひどい危難ではあるけれども、ヨソの世話になる筋合いではない、「しゃあない」、という共通認識があったように思う。それはたくましい気概ではあったが、同時に孤立した考え方でもあった。そこに、当時、怒濤のような義捐金が寄せられ、自然発生したようにボランティアたちが集まり、子供たちの手による寄せ書きや千羽鶴が次々に届いた。これらはすべて、「日本国民の全員が、あなたがたの危難に肩入れしています」というメッセージとして届いた。「黙ってられるかよ」という声があった。そこに大きな感動があったのだ。僕自身、その千羽鶴を自分の手で運んでいるとき、日本国民の善意を運んでいるというよりは、日本国民の「意地」を運んでいたように感じていた。「同じこの日本で起こったことを、放ったらかしにできるかよ」と。まるで突然火がついた、何かの伊達か酔狂のように。

その意味においても時代が違う。現代においては、本来こちらがまっとうなことかもしれないけれど、「国家規模での被災が起こったときには、当然ながら国家が主体となって救済と復興にあたり、そのことについては日本国民の全員が肩入れをする」というのが大前提になっている。むしろこちらが共通認識になっているはずだ。だから、この共通認識の上で、さらに千羽鶴が届いたとしても、そこに追加されるメッセージ性はない。

さらには、その「肩入れせよ」の共通認識は、一部のヒマな人たちのヒマつぶしのため、どことなく切迫した同調圧力を帯び始め、「他人の危難には肩入れするのが当たり前」という、仁義ではない全体主義の気配を持ちだし、まるで「そうでない人は非国民でしょ」「さもなきゃ人非人でしょ」と強制される気圧を持ち始めた以降、もう何年になるのか、人々はすでにそのことに強く倦んでいる向きがある。また、この辟易を、ほとんど揶揄するためだけに、あえて強調して「偽善」「カネを出せ」とあげつらう勢力が反動に生じている。他人のする、所詮は無害に収まることを讒謗して、ひそかに愉悦するというのでは、千羽鶴を送ることそのものよりはるかに不毛で悪趣味だ。このようにこじれて、ほとんど「呪われてほしい」という当てこすりがあるだけの暗い勢力に千羽鶴が根こそぎ否定されるのも呪術めいていて快くない。極論すると、廃品回収のように、「不要な千羽鶴を回収・焼却いたします」と声を上げて回るボランティア活動を興せばいいのか? という話になってしまう。それではもはや、単に極端というだけでなく、すでにのろいに毒されてしまっている。

世間の隅に漏らして残す私見として、現代の「被災があれば千羽鶴が送られてくる」という定型について、その可否どちらにも僕はコメントできない。可といってもたいした可ではないし、否といってもあげつらうほどの否ではないと思う。それは、多くの人が内心ではそう思っていることと同じに。ひとつの手間かもしれないけれど、届いた千羽鶴はいつかの新年に神社で焚きあげてもらってはどうか。新年でなくても、いつかの慰霊祭の祈念にでも。そして燃やされる千羽鶴は、写真だけ撮っておいて、その年の卒業アルバムにでも小さく差し込んでおけば、届いた千羽鶴は人々の生きてゆく端に永く残り続けるだろう。それで十分、返報は済んでいると思う。

この殺伐としたご時世の中で、人心が歪んだのかどうかは定かではないが、もし送る側が、千羽鶴を送ったという「まじない」に依存したがるなら、それは「おっかないなあ」ということでしかないし、それを血眼(ちまなこ)に否定して、「のろい」に悦びたがるなら、それもやはり「おっかないなあ」ということでしかない。何かの意地があるのではなく、千羽鶴をまじないにしたがる勢力と、その千羽鶴を踏みにじってのろいにしたがる勢力があるのだとしたら、僕はその双方と無縁でありたい。

ただ、1995年の、まだ春が来なかった神戸において、僕が運び届けた千羽鶴と寄せ書きは、ことごとく「感動」でしたよということだけは、しつこく言い残してゆきたい。何度も言うように、「時代が違う」のだ。その異なる時代の向こうに、あの千羽鶴と寄せ書きの尊厳は保たれ続けていてほしい。実際にこの手でそれを運んだ者としては、いつまでもささやかに、こだわり続けずにいられないのだ。そのこだわりは、今この時代に役立つものではないにせよ、これからやってくる時代を形成することにおいては、何か遠巻きな作用を為すことがあるのかもしれないから。

九折
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