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2016年07月05日21:23

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謎アラカルト(4) 萩原朔太郎「夜汽車」の通過する山科

 朔太郎「抒情小曲集」1925 所収に「夜汽車」(愛憐詩編)がある。

「有明のうすらあかりは
 硝子戸に指のあとつめたく
 ほの白みゆく山の端は
 みづがねのごとくしめやかなれども
 ・・・

 そこはかとなきまきたばこの烟さえ
 夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
 いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
 まだ山科は過ぎずや
 ・・・

 ところもしらぬ山里に
 さも白く咲きてゐたるをだまきの花。」

 この詩は、人妻との逃避行を描いたものとされていたとのことである。
しかし、渡辺和靖「朔太郎の片恋 大正三年「日記」をめぐって」東北学院大学論集 によれば、この人妻を朔太郎がエレナと呼んでいる少女で、彼女が結婚して後も思い続けていた、との説があるが、これはすべて朔太郎の創作である、エレナを思い続けていたことはあっても二三度会っただけの片思いに過ぎなかったというのである。

 この説が当たっているのかどうか、私には判断のしようがない。しかし、この詩の設定にはずっと違和感があった。
 そもそも「山科」とは何だろうか。
 朔太郎は、熊本や岡山の高等学校に在学していたことがあるので京都の山科を何度か通過していたとの解説がある。
 そうだとして、夜明けに山科を通過する時「まだ山科は過ぎずや」とはどういうことだろう。
 山科は京都の東で東山トンネルを抜けたところにある小盆地で、すぐに逢坂山トンネルに入って、抜けたところで琵琶湖から流れる川を越える。瀬田の大橋あたりだったか。京都生まれの私にも、もう、記憶が定かでない。

 で、私の違和感は「まだ山科は過ぎずや」はどういう状態での感慨なのかということにある。これが、上りなら、京都駅で停車した後、すぐに東山トンネルに入る。トンネルを抜ければ山科盆地である。この感慨の起きる時間が無いのだ。
 逆に、下りなら鈴鹿山脈を左に(東に)見て、琵琶湖の脇を通って来て、いきなり長い逢坂山トンネルである。蝉丸法師の「これやこの往くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」のあった山。そしてトンネルを出れば小さい山科盆地。あっという間に又トンネルである。いったいいつ「まだ山科は過ぎずや」になるのだろうか。

 確かに、朔太郎は山科を何回か通過している。しかし、それは二十歳前の旧制高等学校の学生時代のことだったに違いない。
 ここで「山科」を使ったのは語感が気に入ったからだけのことではなかろうか。当時の山科盆地は一面の田んぼのはずで、市街地が増えてくるのは私の中学生あたりの頃として60年前1955年頃からだろう。名所旧跡といえば、どういうわけか天智天皇陵があった(遠足に行ったことがある)。近江の都(大津市の北)で亡くなったはずなので、本来ならそこにあってもよかったのだが。
 それはともかく、渡辺氏は朔太郎の日記から、この詩の事実があったか、エレナとの不倫があったかを調べ、事実はないと結論したのだが、私の場合、詩の描く夜行列車の通過の様子から、事実を踏まえていないと言う結論を得たのである。


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