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2013年10月08日17:25

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時代を越えて(9)  プリンス近衛殺人事件

 アルハンゲリスキー「プリンス近衛殺人事件」新潮社2000 は重い内容であった。著者は、ソ連時代から著名な作家、ジャーナリストで多くの要人と知友関係にあり、ソ連崩壊後も、その人脈で機密文書にも触れることができたという。本書は、日本兵のシベリア抑留が何故行われたのか、その実態はどうだったのかを暴露・糾弾するものである。
 本書の中心人物は近衛首相の長男文隆中尉であり、ソ連軍の捕虜となり、1956年10月29日に収容所にて急死したとされているが、著者は自然死ではないと秘密警察の手を疑っている。文隆氏は15か所にも及ぶ監獄と収容所をたらいまわしにされた唯一の捕虜だったのだが、健康状態は問題なかった。ところが、日ソ共同宣言が鳩山一郎首相とブルガーニン首相(第一書記はフルシチョフ)の間に交わされたのが10月19日。鳩山首相は抑留者の帰国を調印の条件としていたし、特に文隆氏には嘆願書が数十万通もあったのだが、10日後の急死である。
 著者によれば不都合な人物に死んでもらうのは、脳卒中と心臓麻痺が常套手段で、文隆氏の場合は心臓麻痺であった。

 どこが問題だったのか。そもそも十五か所の監獄や収容所を転々として、ソ連の裏の生き字引になったような人物を生かしておくわけにはいかなかった。それも、フルシチョフたちが恐れたのは、文隆氏が首相になるかもしれないということで、そうなれば、ソ連の暗部が日本中に知れ渡るに違いない。
 しかし、なぜ、そんな状態になったのかといえば、文隆氏がソ連のスパイになることを一蹴していたからである。その結果は分かっているのかという脅しには、覚悟していると答えていたという。
 シベリア抑留者に共産主義教育をして帰国させていたのだが、というか教育成果のあったものを帰国させていたのだが、実は、そんな下っ端には秘密警察としては何の期待もしていなかったらしい。大事なのは高級将校である。たとえば、志位正二関東軍参謀はラストロヴォフのスパイ教育を受けて帰国したのだが、その指導者がアメリカに亡命してすべて自白してしまったので、志位氏も警察に出頭したという。志位和夫共産党委員長の叔父にあたる。
 また、瀬島龍三大本営参謀、後の伊藤忠商事会長もラストヴォロフのスパイ教育を受けていて、スパイ疑惑が残っている。
 というようなソ連秘密警察にとって文隆氏は願ってもないスパイ候補であった。ファシストとしての罪を認めさせ、革命の祖国に忠誠を誓わせようと、彼らなりに苦心惨憺、スターリンに叱かられながらいろいろやってみたのだが、何の罪も犯していない、祖国は日本だとのすげない挨拶しか帰ってこないまま10年が過ぎて、共同宣言の場となってしまった。

 ところで、文隆氏はプリンストン大学留学経験があるので英語はできるのだが、ロシア語も不自由なかったという。それが疑いの一つになった。ゾルゲに教育されたのではないのか、というわけである。事実、文隆氏は近衛首相秘書官としてスターリンのスパイのゾルゲや尾崎秀実と親しかったのである。ややこしいことである。スターリンはゾルゲや尾崎を捨ててしまった。関係ないというわけだろう。・・・これは私の憶測だが、文隆氏はゾルゲたちを通じて何か機密を知っているのでないかと疑われたのではなかろうか。

 一部で疑われているように近衛文麿首相本人も共産主義革命を目指していたとすれば、スターリンの立場として、なおさら生かして返すわけにはいかなかったのだろう。手口がばれてしまう恐れがあったし、困ったことに、日本への忠誠を堅持する人物なのだ。それは、雪解けのフルシチョフにも引き継がれていた。シベリア抑留は、60万人で、死者は6万人とされているが、著者によれば実際は100万人以上で死者は37万人だという。この実態も日ソ友好のために隠しておくべきことであった。
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