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2010年11月15日20:29

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「ラグーザと荻原碌山」展 特にラグーザ『日本婦人像』について

11/14(日)、07:49浜松発のひかりで上京する。

上野に出て、東京藝術大学美術館へ。
少し早く着いたので、庭のテラスの椅子に腰掛け、秋の気配を聴きながら、開館を待つ。曇り空の下で、色付き始めた木々はしーんと静まり返っている。
10:00、1番で入館。

ここでは、今2つの展覧会が併行して進行中である。
1つは、「明治の彫塑〜ラグーザと荻原碌山」展。
もう1つが「黙示録〜デューラー/ルドン」展。(セット入場券800円は安い!)
後者は、西洋美術館と互いに関連付けた企画で、そちらは「アルブレヒト・デューラー版画・素描展」と銘打っている。
西洋美術館にも寄るつもりで、まず藝大美術館に来た次第である。

まず、「ラグーザと荻原碌山」展の会場へ。

第1部:ラグーザとその弟子たち

ヴィンチェンツォ・ラグーザ(1841-1927)はイタリア、シチリア生まれの彫刻家。
1876年(明治9)に開校した日本初の美術教育機関、工部美術学校に招聘されて、西洋彫刻の指導をし、近代日本彫刻の基礎を作った人物である。

彼については殆ど事前に知るところはなかったが、作品の方は記憶の何処かに眠っていたようだ。タイトルも失念していたが、それは『日本婦人像』という名だった事、会場で確認した。
それが添付写真だが、1880〜81年に制作された石膏の原像と、1958年に鋳造されたブロンズ像とがある。

着物姿の若い日本女性、襷掛けをした胸像で、手拭いを被った和風の髪も衣服も写実を尽くしたもの。ただリアリティに富むというだけでなく、まさに明治初期の時代に活きている日本の(しかも”下町の”と迄明確に言える)若い女性の姿をそこに見る事ができる。
表情が実に素晴らしい。頸を少し傾げて、斜め左下を見ている。視線を求めて腰を屈めて見上げると、視線の逢う位置がある。そこから見ると、口元が僅かにほころんでいて、豊かな形のいい唇の間から、歯が見える。少々の恥じらいが感じられもする。
ブロンズ像は硬質で冷たい感じがあるが、石膏像の方は、真っ白ではなく、微妙な色や汚れが付着していて、それがよけいに人間らしさ優しさ柔らかさ等を感じさせる。
写真ではキツネ眼に見えるが、上で述べた位置から見上げると、瞳孔と虹彩がしっかり彫り込まれていて、優しいそうで潤いのあるな表情だ。石膏像なのに、ある種の湿度さえ感じさせるのは驚きだ。

この展覧会で明らかにしているが、この胸像、実は、元々は胸を出していなかった。
私も、ここで初めて知った。
ラグーザは、部分によって、分けて形を作り、接着するという手法を採っていた。例えば、前襟、襟首、襷の結び目、等である。向かって左前襟と同じように、右の胸も、当初は襟で隠されていたのだ。
いつかは明記していなかったが、接着が外れて、その襟は壊れたか紛失してしまった。それで、現在の姿になっている。
これから判るのは、ラグーザは、衣服の下で見えない筈の肉体もしっかり作り込んだという事実である。
古い絵ハガキが参考資料として展示されていたが、その写真の同像は、確かに前をはだけてはいない。
彼のこうした科学的な視線や態度というものが、後の日本近代彫刻に与えた影響は如何ばかり大きかったろう、と思いやるのである。

ラグーザは、6年間精力的な仕事をし、1882年にはイタリアに帰るが、その時、清原玉という女性と一緒だった。
彼女は工部美術学校で西洋画の指導を受けた生徒で、1880年に結婚している。ちなみに玉はラグーザの20歳年下だった。
シチリアにラグーザが開校したパレルモ工芸学校では絵画科の教鞭も取った。各地で受賞もしており、日本にいたなら、明治の初期、女性としてそうした活躍はできなかっただろうとも想像してしまう。
夫ラグーザの死後は、日本に戻り、画業を続けた。持ち帰った夫の遺作多数を寄贈し、それが現在の藝大所蔵品になっている訳である。

当初、私は、『日本婦人像』のモデルは、この玉だろうと勝手に思い込んでいたのだが、そうではなかった。
『清原玉像』と題された作品は別に存在し、それも展示されている。それは違う顔付きだった。

会場では、『日本婦人像』の前述した部材の科学的解析や、ラグーザの弟子の日本人作品も展示されている。


第2部:没後100年 荻原碌山、については、別途。
 
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