mixiユーザー(id:3319490)

2017年07月17日15:33

691 view

グレートギャッビー 2 

 グレートギャッビー
 原作を読んだことはおありでしょうか。
 映画では、ロバートレッドフォードとディカプリオが演じております。それぞれにイメージは違う。

 実のところ、「井上芳雄」はもっと違う。

 ギャッビーって、軍隊上がりのマフィアなんですよ。悪いやつなんです。貴公子然とした井上芳雄がチラシにでっかくありましたけれども。やはり違う。

 でも、舞台というものはそういうものですし、その人なりの「ギャッビー」であればいいのだと思います。
 ギャッビーはひたすらに一人の女を愛して、彼女にふさわしい男になろうとしていた。上流階級の一員になろうと努力していた。ギャッビーが「なりたかった姿」を演じていた、という解釈でいいかな、と今は思っています、
 まあ、欲を言えば、貴公子然としていても、ふと出てくる育ちの悪さ、みたいな箇所がちらっとでも出れば、もっと「はっ!」とさせられたかも。
 あくまで、最後まで、「アウトローブルース」を歌っていてさえ、品のよい井上芳雄さんだった、と言う点で、それを原作とは違うものとしてよしととらえるか、マイナスと評価するか、それは別れるところかと思いました。

 宝塚OGの女優さんたちがたくさん出ていて、かつ演出家の方も、宝塚版の「ギャッビー」を演出した方だという。なので、あえて?物語はロマッティッンクラブストーリーに仕立てられていて、賛否両論あるヒロイン「デイジー」もまた、ギャッビーを愛していた、でも状況がそれを赦さなかったの、みたいな演出になっていました。
 映画でも、原作でも、デイジーは最後にギャッビーを訪ねて行ったりはしません。白いバラの花を投げ入れる、なんてことはしません。黙って自分の人生に戻って行くだけです。
 デイジーは、ギャッビーに恋はしていたでしょうが、やはり温度差はあった、と私は思っています。大きな声では言えないけれど、デイジーってそこそこクズな女だよね、と実は誰もが思っていたりしてあせあせ(飛び散る汗)
 美人で、育ちが良くて、流されやすくて、守ってあげなければ一人では生きられない、そこが彼には良かったんだから仕方が無い。
 自立していてしっかりしていて、自分のパートナーになれそうな女性では彼の心は満たされないのだから、仕方が無い。
 デイジーのそれから、も気になるのですが。彼とのことも彼女の人生の青春の一ページに過ぎず、年を取って孫に「私のことをすごく愛してくれた人がいてね」程度に語られるのかな、とか想像したりしていますが、この舞台のデイジーは、それよりはもう少しギャッビーのことを愛している気はしますから、心の傷にはなって後々悔やんで生きることになるのかもしれません。

 舞台、原作、映画、と混同してしまいました。何を軸に観れば正解なんだろう。お話を主体に語ってみました。
4 6

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する