mixiユーザー(id:30127800)

2018年01月18日02:38

739 view

2018年センター試験 〜国語編〜

こんにちは、石塚良介でございます。

今年もセンター試験の時期がやってまいりました。私は一浪したので過去に
センター試験は2度ほど受験しました。2回目(1994年)のときの国語の出題
が「項羽と劉邦」だったことは今でも印象に残っています。

センター試験も後、残すところ数回の実施で、その後は現政権が推し進めてきた
新方式の試験がセンター試験に代わります。記述式問題も出題とのことで、
敢えて期待することのであればその箇所ですかね。

-------------------------------------------------------------------
私はセンター試験と聞くとどこか懐かしく、最近は、国語(現代文のみ)と
世界史Bを新聞の問題を見て挑戦しています。

大学(院)卒業のときの就職活動でのSPI試験では現代文は結構得意でした。

-------------------------------------------------------------------
ただ、現代文が得意になると急に学生時代の友達の言葉が気になってきました。

友達曰く
「国語が苦手な子は、回答するのに考えているんだよね。」

問題を解くのに考えるのは当たり前なのでは?と思う反面、一時、現代文が
得意になって感じたことは、正解肢には正解肢の、特に間違いについては問題
にもよりますが、不正解肢独特の特徴や癖、口調(表現)があるのです。

現代文の問題が解ける子はその感覚があり、もちろん文章は読んではいるでしょうが、
最終的にはそういう「特徴や癖、口調(表現)」である意味、機械的に正誤を
判断していると思われます。

ぼくも、一時、現代文が得意だったときにそういう感覚がわかりました。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

不遜な言い方ですけど、

現代文って政治なの?

って思ってしまうこともあります。

というのも、以前(2012年)、神奈川県立川崎図書館にて西成活裕さんの講演
を聴講しに行ったときに、西成さんが、「最近は私の著作を学校の入学問題に使って
いただくこともあります。ただ、その問題と解答を見たときに、我ながら、そういう
ことを言っていたのかな、と本人ながら思うこともあります。」と話されていました。

文章の作者に直接確認もせずに、文章を解釈して、その解釈の是非を出題者(学校)が
決めてしまうのは、極端な言い方をすればその正解/不正解に客観的な指標がない
わけで、それを是または非とするあり方は一種の「政治みたいなもの」に私に見えて
しまっても、それはそれで妥当なものの見方なのではと思ってしまいます。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
私は何も「現代文」という入学試験科目を否定しているわけではありません。
むしろ、学科試験の中で「現代文」が一番面白いと思うこともあります。

----------------------------------------------------------------------
今回さっそく、2018年センター試験に挑戦してみると、

1)論説文…「デザインド・リアリティ ― 集合的達成の心理学」有元典文・岡部大介
2)小説 …「キュウリいろいろ」井上荒野

以上が出題文です。

現代文が得意だったのはほんの一時だったみたいですね。今回小説は何とか解けました
が、論説文がダメでした。
前述の友達ではありませんが、「回答するのに考えて」しまうのです。それはそれで
嫌ではありませんが、取り組んでいてなんとなく、しっくいこない感じでした。

だんだん、頭にきて、「あんたの”御意”はどうでもいい。俺はこれに肩入れするよ。」
みたいな気持ち、スタイルで回答することにしました。回答し終わった後、おそらく
論説文は、ハズレだらけだろうな、と思いました。

よくない勘は当たるもので、なんと1)の論説文は、漢字や構成(形式)を問う以外の
読解問題が全部外れていました。
ただ、正答と自分の選択した誤答を読み比べると… 確かに正答は出題文のどこかに
記載してあることを基に文章を作っているのかな?と思うのですが、選択肢の間で、
一方が是、他方を非とするほどの違いや根拠がどの辺にあるのかな?とも思ってしま
うんですよね…

2)小説 は子を早くに亡くし、昨年に夫を亡くした女の人のお話(小説)。それは
悲しいことだけど、その中の気持ちの起こりや思い出を追っていくのが小説。読んで
いてわかりやすく、ホッとする反面、結構これはこれで設問を読むと、ええ… どれ
かなって悩んでしまいました。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
古文や漢文も回答したいですが、それらについては文章読解するだけの力がないので
断念しています。

一昨年に出題された論説文の「キャラ化する/される子どもたち」土井隆義 の
出題文を今なんとなく思い出しています。あれも解答はしっくいこなかったかな…

確か問5の正答の文章が

「生徒B−えっ、そう? 今の時代、自分の信念を貫き通せる人なんて、そんなに
いないんじゃないかな。何が正しいか、よく分からない時代だし。状況に応じて態度
や振る舞いが変わるのも仕方がないよ。そういう意味で、キャラを演じ分けるのも
一つの誠実さだと思うんだけど。」

というものでした。

正直、回答しているときにこの文面を見て、正誤を判断する以前に、この文の
語り口と内容が生理的に受け付けない気持ちばかりが先行し、問題の正解より
「何を選ぶかが自分の在り方か?」みたいな思考回路になってしまったのを
思い出しました。

文章を読んで、出題文と何より設問にしっくいこないと最後はその思考回路
になってしまうのかな…








2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する