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2016年10月13日00:37

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吉本隆明の罵倒文の力

ツイッターに書くには長すぎるのでここに。吉本隆明が、「苦しい思想的な営為のうえに棄教した」(ここで「棄教」とは左翼からの転向を意味する)清水幾太郎を、丸山真男、梅本克己、佐藤昇の非難から擁護し、彼らを罵倒している文である。しかし、いま問題にしたいのは、その内容ではなく罵倒の文体。ところどころ省略してこの論脈において核心的な部分のみ引用する。

かれらは清水を「君子は豹変する」(梅本)といい、「ブルータス、汝もか」(佐藤)といい、「マッハ的速度」(丸山)の転向だと口裏をあわせて語っている。そしてこうした評語で安保後の清水幾太郎を片付けたうえで、座談会の記録は(笑)という言葉をさし挟んでいる。何が可笑しいのだ、梅本よ、佐藤よ、丸山よ。……が、どうして嘲笑されねばならないのだ。……に、どうして清水を嗤う資格があるのだ。……に、どうして清水を非難する資格があるのだ。……に、どうして他人の棄教を嗤う資格があるのだ。(勁草書房版著作集13、362頁)

当時の私の心を打ったのは、「何が可笑しいのだ、…よ、…よ、…よ。」の部分と、それに続く「……が、どうして…のだ」が繰り返される部分の、いわば韻律であった。私はそれに説得されて、吉本とともにこの3人を侮蔑した。おそらく、同じ内容であってもこの文体でなければ、そんなことは起こらなかったであろう。今日ではわかりにくいが、ここにはマルクス主義を頂点とする左翼的価値序列から独立した別の価値の存在が(しかし反左翼的にではなく)力強く主張されており、この侮蔑に共感することにもじゅうぶんな理があったのだが、それはまた別の話である。
 私はこの罵倒文に彼のもっと若いときの詩の一節を重ねた。それは「涙が涸れる」という有名な詩なのだが、そのまた最も有名な一部分だけを引用する(どこかで全文を読んでいただきたい)。

……
胸のあひだからは 涙のかはりに
バラ色の私鉄の切符が
くちゃくちゃになってあらはれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである

とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
……                        (勁草書房版著作集1,171頁)

 この詩はいろいろな意味で影響力が強かったのだが、詩が人々に影響を与えた時代の話をしている余裕はないので、単刀直入に言うと、私は「何が可笑しいのだ、…よ」に、この「とほくまでゆくんだ …よ」の反復を聴いたのだ。語りかける相手が真逆なので、語る内容も真逆だが、実はどちらも同じことを言っている。吉本隆明のいわゆる「自立」という思想があざやかに打ち出されている(と私は理解した)。「何が可笑しいのだ」とは要するに、独りでとほくまで行こうとしない人に対する侮蔑の言葉である(と私は理解した)。
 私は彼のこの韻律に説得されて「自立派」になり、今もなおそうである。もう40年以上も前のことである。これまたもう20年以上も前のことだが、大庭健という人がなぜか私のことを「遠くまで行くんだ路線」と評したことがあり、私を非難する文脈での評語であったにもかかわらず、密かに感動したことがある。YouTubeで水島総という人がこの詩について語っているが、「とほく」の意味を誤解している(影響力の一部については正しく指摘しているが)。この「とほく」は空間的な遠さなどではなく、もっとずっと遠い、極限的な遠さを意味している(と私は理解した)。
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