Eテレ「白熱教室」が面白い。
おそらく純粋に音楽がテーマになるのは、今回が初めて。先生は、英国ロイヤル・アカデミー(王立音楽院)ティモシー・ジョーンズ博士。
第1回は、バッハ。
博士の切り出しはとても強烈で、衝撃的。
私たちの音楽の在り方とは
(1)再生可能
(2)種々のテクノロジーを通じた体験
(3)音楽現場の不可知性
(4)孤立性
しかし、バッハの時代はそうではなかった。
音楽は、生で聴くものであり、再生(リプレイ)する事はできなかったし、生身の演奏家が目の前にいて、彼らがどう演奏し音楽がどう作り上げられているかを見ることができる具体的なもので、そして、何よりも、他者と共有できるコミュニティー的経験でした。
話しはとても具体的で、学生の実演奏に博士自らがピアノで加わっての演奏つきレクチャー。
最初は、日本人の富井ちえりさんの無伴奏ヴァイオリンパルティータから第2番の「ジーグ」。
「ジーグ」とは英国発祥の舞踏曲だそうで、シェークスピア時代の演劇の終末には必ずこれが附帯されていて大団円を迎えた舞台と観衆が一緒に踊ったのだそうです。
そして、バッハの教会カンタータ。
バッハは、1723年にライプツィヒの聖トーマス教会のカントルに就任すると、死の前年に脳卒中で倒れ視力も完全に失うまでこの職を全うします。そして、バッハは職人さながらに、毎日曜日の礼拝のためにおびただしい曲を創作していくことになります。
そういうカンタータはとても具体的で、教会に集うコミュニティの人々と深い共有性があったのです。
キリスト教社会の暦というものは、すべての週がキリストの生涯と結びつけられていて、バッハのカンタータはそういう暦と密接に結びついているわけです。
「われは満ち足れり(Ich habe genug)」(BWV82)は、2月2日という「マリアの潔めの祝日」のためのカンタータ。
バスの独唱は死を迎える老人の肉体で、オーボエソロはその魂だという。
博士は、現代社会では、こうした教会音楽であっても一般のコンサート会場で聴く機会のほうが多くなり、特に季節や暦とも結びつけずに聴くことになっているけれども、やはり、こうしたことや、音楽や詞に埋め込まれた意味合いは知っていた方が音楽が豊かになると説きます。
私もほんとうにそうだと思います。
さて…
博士は、最後にとんでもないどんでん返しを用意していました。
それはバッハ晩年の大作であった「ロ短調ミサ曲」。
なぜ、新教ルター派教会に属していたバッハが、カトリック典礼に基づいた「ミサ曲」を書いたのか。当然にバッハは、この曲が実際に演奏されることは期待もしないし、想定もしていなかっただろうと言うのです。社会との関わりということでは、目的も成果もない全く具体性のない仕事としか言いようがないのです。
それは死が近づいていることを予感したバッハが、教会の日曜日の礼拝でも王様のためでもない、自分自身の音楽の集大成としてあり得る限りのすべてを注ぎ込んで再生可能な音楽として後世に残したいと願ったからではないかと博士は言います。
その時、実際に演奏されることのないこの大曲は、バッハの頭の中で響いていたに違いない。それは、つまり、バッハがたった独りで聴く音楽であり、しかも、それはバッハの頭の中ではどこからでもリプレイができる再生可能な音楽だった…と。
それは、冒頭の私たちが音楽を聴く姿と同じではないか!?
オーディオで聴くバッハ。何度でも繰り返し再生して確かめていくバッハ。繰り返すほどに感動が深まっていくバッハ。純粋だけれど私たちの日常へとつながっていく具体的な存在でもあるバッハ。私たちは決して孤立しているわけではないのです。
このシリーズが楽しみになりました。
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