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2016年07月28日23:30

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障害者抹殺論の本質

相模原事件は「二重の殺人」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4115946

障害者抹殺論というのは、いつの世も一定の支持者がいる。大抵の場合、それはごく一部の屈折した価値観の持ち主たちに限られる。しかし、ナチスの例にもあるように、時として激烈な悲劇を引き起こす。だから、こういう議論の危うさを指摘しておくことには価値があるだろう。

いろんな批判は可能だが、私なりの問題意識から障害者抹殺論の危うさを指摘すると、こういう論者は自分が抹殺される可能性を考慮していない、という問題があると思う。

障害者自身が障害者抹殺論を説くことはほぼないだろう。論者は基本的に健常者と見ていい。抹殺対象が他人であるから、気軽に「殺せ」と言えてしまう。健常者である論者自身が、なぜ抹殺される可能性を持つかというと、人間の生命の価値や人生の価値を本人以外の人間が判定し、「こいつは生きていてよし、こいつは殺すべし」と決定することを許すような社会システムを、論者が肯定しているからである。

こういうシステムは、たとえ最初に障害者から始まったとしても、必ず拡張が始まり、次々と抹殺対象を見つけ出す。それはなぜ障害者を抹殺する必要があるのかを問うと分かる。障害者抹殺論というのは、煎じ詰めれば障害者が社会の負担であり、実益が何もない存在だという評価に根ざしている。したがって、同じ評価が可能な存在を見つければ、障害者でなくともターゲットになりうる。

歴史的には、障害者のほか、黒人、犯罪者(政治犯含む)、ユダヤ人、○○民族、などがターゲットになってきた。現代日本で考えるなら、在日や朝鮮人、中国人、殺人犯などがターゲットになりやすいだろう。そして次第に○○主義者や○○党の党員、支持者へも拡張していくだろう。

リンクの記事の中でも新自由主義への言及があるが、経済合理性だけで人間の価値を判定すると、障害者抹殺論のような議論を導きやすい。貧しい人間=生産性が低い人間=公的扶助に頼る人間=社会のお荷物、というわけだ。

「社会のお荷物」を発見し、その排除を推進する発想は、裏返しとして「自分は排除されない人間だ」という自己肯定が隠れている。ナチスの場合で言えば、それはアーリア人種の優越という選民意識だった。最近の日本ではこういう優越意識よりもむしろ、「自分が不遇なのはこいつらが社会に負担をかけているからだ」といった自己憐憫が排除の思想を生み出していると言えるのではないか。

もちろんよって来たるところは様々あるだろうから、一つに断定する必要はない。全てが選民意識か自己憐憫とは言えまい。しかし、他人を攻撃することによって自分の安堵を手に入れるという行動様式は共通する。

生活保護受給者への冷たい視線や、滞留する死刑囚への執行圧力、刑罰の厳罰化を望む声、在日へのヘイトスピーチ、麻薬に手を染めた芸能人への視線、不倫した者への攻撃性。私には今回の大量殺人とこれらのトピックへの世間の反応は、深いところで根を同じくしているように見える。

この手の攻撃性は、自分より弱いものに向けられている点で共通する。自分より立場の強いもの、攻撃を受け止める力と余裕のあるものには向けられない。こういう怒りが例えば権力者への批判や、極端な富裕層へ向けられると、概ね社会は健全に保たれる。

攻撃しやすい対象を見つけて、インチキな社会正義をふりかざして、排除の論理を展開する。こういうことが社会に広まると、いつの日か自分自身が排除の対象として発見され、最悪の場合、抹殺される。

障害者抹殺論とは、要するに誰かを抹殺し続けることによって社会を支えようとする理論なのである。対象は障害者でなくても成り立つのだ。自分が抹殺されたくなければ、こういう愚論には付き合わないことである。
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