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2016年06月01日12:23

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橋本陣屋 / 楠葉台場跡

 5月10日火曜日は、京都府八幡市の大坂街道橋本宿中心部から南下して、楠葉台場跡〔史跡〕を目指しました。
 途中、橋本陣屋跡があります。
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 尊攘運動が盛んになっていた安政6(1859)年、幕府は京坂間の淀川警備の為に橋本宿に陣屋設置を決定、百姓・町人の地主は約5000坪の土地を幕府に召し上げられてしまいました。
 陣屋は万延元(1860)年に完成し、慶応3(1867)年より宮津藩が配備されて慶応4(1868)年1月の鳥羽伏見戦合戦を迎えました。
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 陣屋跡はバスロータリーになっていますが、石碑やパネルの一つも無くて残念です。
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 バスロータリーから少し西南へ向かうと、大阪府枚方市に入り、真言律宗別格本山天王山木津寺久修園院(クシュウオンイン)の伽藍が見えて来ます。この付近一帯は、古墳時代から中世にいたる複合遺跡であり、楠葉中之芝遺跡と命名されています。https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B9%85%E4%BF%AE%E5%9C%92%E9%99%A2/@34.8782174,135.6798765,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x600104ac1ef7d433:0x9db7941721c4eda!8m2!3d34.8782174!4d135.6820652
 寺伝によれば、行基菩薩が神亀2(725)年に山崎橋を架けた際に発願して開基したとされ、行基四十九院の一つで、通称「釈迦堂」、または「木津寺」とも呼ばれています。創建当初は七堂伽藍が建ち並んだ大寺で、聖武天皇の勅願所だったとされていますが、慶長20(1615)年の大阪夏の陣の際、豊臣方の敗走兵が当院に逃げ込んで放火自決した事により堂塔は悉く焼亡してしまいました。
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 その後、延宝8(1680)年に至って宗覚律師により再興されました。宗覚律師は博識多芸で儒仏は言うまでもなく医学・宗教学・地理学・天文学・武芸・音楽・絵画・彫刻等に通じた文化人だったと伝えられています。
 鳥羽伏見合戦の際には、徳川軍が当院を橋本本営として本陣を構えました。
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 ここには、元禄15(1702)年頃、宗覚律師が作った天球儀〔枚方市指定文化財〕が寺宝として伝わります。天文博学者安井算哲の天体星座の図により模作彫刻したとされ、銅製の極めて精巧な天体観測器です。球面に天球の星辰(星座)を銘記しており、その支柱(子午環)には「以天文博士保井算哲之図模作焉 老比丘宗覚正直自運錐鑽雕焉」と銘文が刻まれ、箱には「天球之図」という墨書があります。直径は52cmです。
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 久修園院の南側は楠葉台場跡〔史跡〕です。
 嘉永7(1854)年、ロシア帝国ののエフィム=プチャーチン海軍中将の座乗したフリゲート艦ディアナ号が大坂湾に現れたため、文久3(1863)年に至り、京都守護職・会津藩主松平容保(カタモリ)は、外国船が淀川を遡上して京都に攻め込む事を防ぐため淀川の両岸に台場を建築する事を建白し、勝海舟が奉行となって建設が開始されました。しかし、実際には長州藩等の反幕勢力を京に入れさせないための関門としての要塞とするのが真の目的でした。淀川右岸には高浜台場、少し奥に梶原台場が造られ、左岸の楠葉台場は慶応元(1865)年に完成しています。南側から攻め上って来る船や軍に向けて造られているため、南側のみが水堀を備えた稜堡式の形式となっていました。
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 面積は約38000㎢であり、火薬庫の他大砲を3門を備えていました。台場完成と共に京街道も付け替えられて台場の中を通るようにされ、そのための番所も設けられました。隣接して淀川の通行の監視のため船番所も設けられています。幕末期に作られた台場は多数ありますが、普通は海岸に造られる物であり、河岸に造られた台場は高浜台場・梶原台場とここだけです。
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 慶応4年1月3日(1868年01月27日)に勃発した鳥羽伏見合戦に於いて、徳川軍は錦旗出現のため新政府軍に敗北した上、5日には幕府老中稲葉正邦が藩主を務める淀藩にまで裏切られたため、軍勢を山城・河内・摂津国境の淀川両岸に展開させて態勢挽回を図りました。土方歳三麾下の新選組や佐々木只三郎麾下の京都見廻組等を含む徳川軍の本隊主力は左岸の男山・橋本に展開、橋本陣屋を総司令部として邀撃(ヨウゲキ)態勢を整え、楠葉台場には小浜藩が詰めて守備に当たりました。東に男山、西に淀川、南に楠葉台場を控えた橋本では、地の利が迎え撃つ徳川軍にあるのは明白で、6日早朝から開始された橋本攻防戦は徳川軍有利に進展していました。
 ところが6日正午頃、淀川右岸の大山崎や高浜台場・梶原台場を守備していた津・藤堂藩が突如裏切って左岸の徳川軍に砲撃を開始したため、楠葉台場はこれに応戦して高浜台場への砲撃を行いましたが、これに乗じて新政府軍が橋本宿を焼き払って橋本陣屋へ突入したため、1600時頃、徳川軍は総崩れとなって大坂城へ退却を開始せざるを得なくなりました。この戦闘で佐々木只三郎は重傷を負って6日後に死亡しています。
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 楠葉台場は南側は堀幅も大きい稜堡式でしたが、北の京側から攻められる場合を全く想定しておらず、北側は堀幅も小さくて大砲も無い上、火薬庫が北側の端に備えられていたため、北側からの攻撃に対する防御陣地としては役に立たつ筈も無く、あっさり放棄されて新政府軍に占領されてしまったのです。
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 明治時代になると、付近は荒廃していましたが、やがて南側の堀のみを残して、他の堀は埋め立てられて田畑となり、土塁も潰されました。明治43(1910)年には京阪電気鉄道が開業して、遺構の西側は完全に消滅しましたが、平成23(2011)年2月7日、「楠葉台場跡」として国の史跡に指定されたため、史跡公園としての整備が進められています。
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 以前は、石碑やパネルが建てられていたようですが、整備工事中のため撤去されてしまったようです。史跡公園が完成したら再訪したいものです。
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 この日は、他にも史跡・社寺巡りをするつもりだったんですが、雨が降って来たため、早めに切り上げ、TOHOシネマズくずはモールに向かいました。
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