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2014年10月04日23:48

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豊中市史跡巡り10 原田神社 / 大石塚古墳

 21日日曜日は瑞輪寺へ参拝した後、山門前から阪急宝塚線岡町駅までアーケードの連なる岡町商店街へ入りました。
 商店街には、桜塚古墳群中心群の中枢を成していながら破却されてしまった桜塚古墳の跡があります。
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 その目の前に原田神社〔府社〕があります。

 祭神は素盞嗚尊(スサノオノミコト)・月神・日神・櫛玉命(クシタマノミコト)・稲田姫命(イナダヒメノミコト)です。櫛玉命とは、神武天皇に撃滅された長髄彦(ナガスネヒコ)が奉じ、物部氏の祖となった饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の事です。
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 月神・日神は、現在では月読命(ツクヨミノミコト)と天照大神(アマテラスオオミカミ)の事だとされていますが、これも長髄彦が奉じていた神の可能性があります。
 原田神社は社伝によると、桜塚古墳群が形成された人皇第16代仁徳天皇〔位;313〜399〕の御世に創建されたとされ、当初は素戔嗚尊など五神を祀り祇園神社と称しました。また白鳳12(684)年6月18日に天武天皇が神宝・神鏡・素盞男命御鏡・獅子頭を奉納した事から大宮と称し、皇族や武家より厚く崇敬を受けたとされます。
 鎌倉時代以降には牛頭天王(ゴズテンノウ)信仰と習合し、東は豊嶋(テシマ)郡榎坂(エサカ)村(現吹田市江坂)から、西は川辺郡富松村(現尼崎市富松)に及ぶ72村の産土(ウブスナ)神社となり、「西牧総社」と呼ばれ崇められました。
 室町時代には歴代将軍から崇敬を受け、殊に11代義澄・12代義晴・13代義輝の三代は厚い信仰を寄せて、神領として西牧六車(ムグルマ)庄(桜塚・原田・曾根・勝部・走井・福井)を寄進しています。
 天正6(1578)年に荒木村重の乱の際に境内社の十二神社本殿及び神宝等を除き全焼してしまいましたが、仮殿を経て慶安5(1652)年に現在の本殿が再建されました。貞享2(1685)年に神祇官から「原田大明神」の神号を得て現在の社名となっています。
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 江戸時代の境内地は室町時代よりも縮小していましたが、境内地に接した門前町は能勢街道と伊丹街道の結節点としても栄えるようになり、この市街地が現在の岡町の基となったのです。
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 明治43(1910)年に開設された岡町駅は事実上境内地に位置した駅でした。
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 明治時代の社格は郷社でしたが、昭和16(1941)年に府社へ昇格、豊中市内最高位の神社となりました。
 表参道の石鳥居〔豊中市指定文化財〕です。花崗岩製の明神鳥居で、高さは5.97m、幅は7.727m。貞享5(1688)年の建立で、設計図・発注書・予算書等も現存して貴重な史料となっています。
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 拝殿です。
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 本殿〔重要文化財〕です。慶安5(1652)年の建立で、全国的にも類例の少ない檜皮葺(ヒワダブキ)五間社流造(ゴケンシャナガレヅクリ)の形式を持ち、正面に千鳥破風(チドリハフ)及び軒唐破風(ノキカラハフ)が見られます。
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 熊野権現を祭る摂社十二神社本殿〔豊中市指定文化財〕です。檜皮葺三間社流造で、基本的な構成は本殿と同様となっています。 桃山様式の特徴を持ち、荒木村重の乱の際に唯一焼け残った建造物とされるため、信長政権期の建立の可能性が高そうです。
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 摂社稲荷神社です。宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)を祭ります。
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 原田神社には弥生時代中期の銅鐸〔大阪府指定重要美術品〕が保管されています。天明元(1781)年に社地の松の根元より発掘されましたが、東奈良遺跡(茨木市)出土の銅鐸鋳型から鋳造された物である事が判明しており、銅鐸の生産地と消費地がつながった唯一の例となっています。
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 原田神社の獅子神事祭〔豊中市指定無形民俗文化財〕は、天武12(684)年に悪疫退除のため開始され、天養2(1145)年に廃止されていたのを明治時代に復興した祭礼です。毎年9月26日から10月9日まで行われます。
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 原田神社には明治24(1891)年に奉納された算額〔豊中市指定有形民俗文化財〕が保存されています。
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 原田神社関連の文化財としては、元禄16(1703)年の水田西吟(ミズタサイギン)撰原田神社奉納俳諧額〔豊中市指定文化財〕が中央公民館に保存されています。水田西吟(?〜1709)は、談林派俳諧の祖西山宗因に師事し、後には井原西鶴にも学んで西鶴の『好色一代男』の版下を書いた人物です。大坂で30年を過ごした後、桜塚の地に落月庵を営み、伊丹の上島鬼貫(ウエシマオニツラ;1661〜1738)等の俳人達とも交流しました。
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 原田神社を出た後、岡町駅前で阪急宝塚線のガードを潜り、西方の小石塚(コイシヅカ)・大石塚(オオイシヅカ)古墳〔史跡〕へ向かいました。桜塚古墳群の西群です。
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 小石塚古墳は南面する前方後円墳で、東西長29.0m・南北長49.0m・高さ3.6mの規模を持ちます。南隣の大石塚古墳との間には浅い谷地形が入り込みますが、主軸はほぼ揃えられています。昭和54(1979)年の史跡整備事業に伴って墳丘・規模などの確認調査が実施された結果、後円部が二段築成、前方部が一段構成で、大石塚古墳同様に東側のみに周溝を有する事が判明しました。葺石は用いていませんが、埴輪は使用しています。
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 埴輪には壷形・朝顔形・円筒形などが認められていますが、墳丘の損壊が激しいため、全て遊離しており、原位置と配置は不明です。後円部墳頂には主軸に沿って粘土槨の埋葬施設が確認されました。
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 棺は形状から割竹形木棺で、北頭位で埋葬されていたと想定出来ます。 棺は黄白色の良質の粘土で包まれ、周囲には赤黄褐色の砂礫土が充填され、下部には砂利が敷かれていました。
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 大石塚古墳は南面する前方後円墳で、小石塚古墳と共に、昭和54(1979)年の史跡整備事業に伴って墳丘・規模などの確認調査が実施されました。三段築成で、東西長45.4m・南北長87.2m・高さ5.0m・後円部径約48mに及び、桜塚古墳群で最も大きな古墳です。
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 墳丘には河原石が葺石として、各テラス面には玉砂利がそれぞれ敷き詰められており、「石塚」の名の由来となったと言われます。曾て墳丘の平坦面には円筒形埴輪と朝顔形埴輪が各々三体一組で配されていました。それらは現在、豊中市立伝統芸能館に展示されています。 この古墳は古くから原田神社の神域に属していたため、破却を免れました。出土した埴輪類から4世紀築造とみられ、桜塚古墳群出現時期を位置づける古墳として重要です。
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 大石塚古墳南方には西山氏住宅〔登録文化財〕があります。大正元(1912)年から昭和16(1941)年にかけて順次建築されました。
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 ここの庭園は重森三玲(1896〜1975)等による枯山水の名園で、国の登録名勝となっていますが、個人宅なので非公開です。
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 この日は、岡町以南の豊中市内南半分を徹底的に巡る予定で、まだ岡町周辺で見残した所もあったんですが、日没が近づいたのに加え、一日中歩き回って疲労困憊していたため、残りは他日を期す事として岡町駅へ向かいました。
《続く》 
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