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2013年06月01日01:47

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ドイツ第三帝國軍人シリーズ29 Alfred Josef Ferdinand Jodl 陸軍上級大将

 アルフレート=ヨーゼフ=フェルディナント=ヨードルは、第二次世界大戦中、国防軍最高司令部統帥局長としてヒトラー総統の最側近にあった軍人です。
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 アルフレートは、1890年5月10日、バイエルン王国ウンターフランケン郡ヴュルツブルクに於いてバイエルン王国陸軍のヨハネス=ヨードル退役砲兵大尉の三男として生まれました。母親は農民の娘テレーゼ=バウムゲルトラーで、陸軍将校の伴侶としては家格が低過ぎたため、ヨハネスの結婚はなかなか公式に認められず、1899年になって漸く婚姻届が出されました。つまり、アルフレートは法的には私生児として誕生した訳です。その後、弟も二人生まれ、そのうちの一人フェルディナントは後に山岳兵大将となりました。
 アルフレート少年は1895年ニーダーバイエルン郡ランダウの小学校へ入学、1899年に王都ミュンヘンの小学校に転校した後、1903年に一旦バイエルン王立テレジア・ギムナジウムに入学しましたが、ヨードル家は職業軍人の家系でしたので、同年中にミュンヘンのバイエルン陸軍士官学校に転じ、1910年7月に第4バイエルン野砲兵連隊に士官候補生として入隊、1912年10月28日に少尉任官を果たしました。
 ヨードル少尉は、この頃から5歳年上のイルマ=フォン=ブリオン伯爵令嬢(1885〜1944)と恋愛関係に陥りますが、シュヴァーベン地方に古くから続く貴族の家柄であるブリオン伯爵は「身分卑しき平民」に過ぎないヨードル少尉と娘との結婚には当然猛反対しました。しかし若い二人の意思は固く、1913年9月に周囲の反対を押し切って婚姻届を出しました。ヨードル少尉の両親の場合とは逆ヴァージョンなのは面白いですね。
 1914年8月、ドイツ第二帝國が第一次世界大戦に参戦すると、ヨードル少尉は第10バイエルン野砲兵連隊に属して西部戦線に出陣、8月20日からロートリンゲン州ザールブルクに於いてフランス軍を邀撃しますが、8月24日に太腿に負傷して後送されました。入院中の11月20日には第二級鉄十字章と戦傷章黒章を受章しています。
 やがて負傷の癒えたヨードル少尉は1915年3月に第19バイエルン野砲兵連隊に配属されて西部戦線に復帰し、1916年1月に中尉に昇進、1917年1月からエスターライヒウンガルン(オーストリアハンガリー)帝國陸軍に出向して、ウンガルン王国陸軍第72野砲兵連隊第3中隊長に任じられ、東部戦線で戦いました。ヨードル中尉は、ソヴィエト政権とブレストリトフスク講和条約が調印された3月3日に第一級鉄十字章を受章した後、バイエルン王国陸軍に復帰し、参謀将校として再び西部戦線で戦っています。
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 ヨードル中尉はヴェルサイユ条約によって10万人に限定されたヴァイマル共和国陸軍に残る事を認められ、1919年6月には第22軽砲兵連隊中隊長に就任、10月1日には第21砲兵連隊に転属しています。ヨードル中尉は1921年7月からミュンヘンの第7師団で参謀教育を受けて同年9月に大尉に昇進、1922年10月からバイエルン州ランツベルクの第7山岳砲兵連隊の第3大隊で勤務しました。ここの連隊長であるコンスタンティン=ヒールル大佐(1875〜1955)は極端な国家社会主義者だったため、ヨードル大尉もその薫陶を受けてアドルフ=ヒトラーの名も知り、ヒトラーを英雄視するようになったと言われています。
 ヨードル大尉は1923年10月1日からベルリンの陸軍大学に派遣されて本格的な参謀教育を受け始めましたが、同年11月にヒトラーがミュンヘン一揆を起こして逮捕され、ヒールル大佐もは陸軍総司令官ハンス=フォン=ゼークト歩兵大将に睨まれて退役させられたため、国家社会主義運動とは距離を置く事にしました。
 陸軍大学での課程を終えたヨードル大尉は1924年10月1日からミュンヘンの第7師団参謀を務めています。
 右から二人目が1926年当時のヨードル大尉です。
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 ヨードル大尉は1927年10月1日からランツベルクの第7山岳砲兵連隊に戻って砲兵中隊長を務め、1928年10月1日からは第7師団参謀内で教官を務めています。ヨードル大尉は1931年2月1日に少佐に昇進し、1932年6月1日から国防省勤務となって、10月1日からは事実上の参謀本部である兵務局作戦課に配属されました。
 1933年1月30日にヒトラー内閣が成立すると、元々ヒトラー崇拝者だったヨードル少佐は国防省内でも指折りのヒトラー信奉者として知られるようになりました。
 この結果、ヨードル少佐は順調に出世街道を驀進し始め、1933年10月1日に中佐に昇進、1934年11月から1935年6月までトルコ共和国陸軍に派遣されて軍事顧問を務めました。ヨードル中佐は1935年7月に国防省軍務局国土防衛課長となり、国防相ヴェルナー=フォン=ブロンベルク陸軍上級大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1771659299&owner_id=250900》・軍務局長ヴァルター=フォン=ライヘナウ少将の下で国防計画の立案に従事、8月1日には大佐に昇進しています。10月1日には軍務局長がヴィルヘルム=カイテル少将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1888411705&owner_id=250900》に交替しますが、以後、終戦までカイテル・ヨードルの二人は緊密なコンビを続ける事になります。
 1938年1月に国防相ブロンベルク元帥と陸軍総司令官ヴェルナー=フォン=フリッチュ上級大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1816372547&owner_id=250900》が失脚すると、2月4日に国防省が解体されて、カイテル砲兵大将を長官とする国防軍最高司令部(OKW)が新設されました。
 軍政職のOKW長官に対し、OKWの軍令責任者である統帥局長に任命されたマクシミリアン=フォン=フィーフバーン中将が直後に健康を害したため、同年4月からヨードル大佐が統帥局長代行に就任します。OKW統帥局は陸軍参謀本部との権限管轄が不明確な組織で、フィーフバーン中将は陸軍参謀総長ルードヴィヒ=ベック砲兵大将と個人的に親しかったため陸軍参謀本部との協調姿勢を打ち出していましたが、熱烈な総統崇拝者のヨードル大佐の場合は「現代の参謀将校とは、新しい卓越した指導者の補佐たる事が最高の義務である」と考えており、従来通り軍令の主役であり続けようとする陸軍参謀本部と激しい縄張り争いを展開する事となりました。
 ヨードル大佐は1938年11月10日に大ヴィーン帝國大管区の第44歩兵師団砲兵連隊長に転出、後任の統帥局長代行にはヴァルター=ヴァルリモント大佐が任命されましたが、カイテル上級大将は引き続いてヨードル大佐を頼りにしており、1939年3月に陸軍総司令官ヴァルター=フォン=ブラウヒッチュ上級大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1839536927&owner_id=250900》が陸軍参謀本部を海軍・空軍にも軍令を下せる最上級参謀本部として位置付けるべきだとの意見書を提出した際には、ヨードル大佐がカイテル上級大将の依頼を受けて対抗意見書を作成、「現代の戦争に於いては、最早単独の戦略業務や開進計画などあり得ず、経済・技術・宣伝工作等への配慮が不可欠となっており、それらの専門事項との協力・調整のためにOKW統帥局が存在するのだ」と述べています。
 この意見書が評価されて、ヨードル大佐は1939年4月1日に少将に昇進して第4山岳師団長に任命されました。そして、ヨードル少将は1939年8月22日にOKW統帥局長に任命されて中央に復帰しましたが、同年9月1日に発動されたポーランド侵攻計画“ヴァイス作戦”は陸軍参謀本部が全てを取り仕切っており、OKW統帥局の出る幕はありませんでした。
 しかし、1940年3月に北欧侵攻計画たる“ヴェーザーユーブンク作戦”の準備が開始されると、海軍・空軍との共同作戦である故、OKW統帥局がこれを管轄する事となり、ヨードル少将は陸軍参謀本部を無視して独自に作戦立案と部隊編成を実施しました。このため、陸軍参謀総長フランツ=ハルダー砲兵大将は激怒しますが、ヨードル少将は粛々と準備を進め、ドイツ史上初めての大規模渡海作戦は4月9日に発動されたのです。
 この際、ノルウェー王国北部のナルヴィクに上陸したエデュアルト=ディートル中将麾下の第3山岳師団が、ドイツ海軍の駆逐艦隊が全滅したため補給途絶状態に陥ってしまい、怖気付いたヒトラー総統は撤退命令を出そうとしましたが、ヨードル少将はイギリス軍も同様に脆弱であるとして撤収に反対し、トロンハイムからの補給路を確保すれば大丈夫だと進言しました。そして、総統がこの案に従った結果、ドイツ軍はノルウェー戦に完全勝利を収め、ヨードル少将の作戦能力の高さが実証されたのです。
 一方、西方電撃侵攻計画たる“ゲルブ作戦”やフランス撃滅計画“ロート作戦”は陸軍参謀本部が担当する事となりましたが、ヨードル少将はヴェーザーエムス大管区ミュンスターアイフェルに設けられた総統大本営フェルゼンネストに於いて、常にヒトラー総統の側近にあり、作戦顧問として活躍しました。以下の写真は同年6月、フェルゼンネストにおける総統とヨードル少将です。左はOKW長官カイテル上級大将。
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 こうしてヨードル少将は総統から高い信任を受け、同年7月19日に二階級特進して砲兵大将に昇進しました。同年12月18日には総統の第21号指令を受けて対ソ侵攻計画バルバロッサ作戦の立案が開始されましたが、東部戦線は主として陸軍参謀本部が管轄する事となり、OKW統帥局はアフリカ作戦やバルカン半島侵攻計画“マリータ作戦”等を委ねられただけでした。ヨードル大将は1941年4月23日に行なわれたギリシア王国の降伏文書調印式にドイツ軍を代表して出席しています。
 しかし対ソ戦が開始されると、ヨードル大将はカイテル元帥と共にオストプロイセン大管区ラステンブルクに設けられた総統大本営ヴォルフスシャンツェに常駐し、総統最側近としての地位を固めて行ったのです。しかし、それは政治問題にも関与する事を意味しており、モスクワ攻略を目指す“タイフーン作戦”が進行中の同年10月、ヨードル大将はカイテル元帥と共にソ連軍政治委員捕虜の即決処刑を正当化した「コミッサール指令」に署名しています。
 なお、モスクワ攻略が失敗に終わった直後の同年12月19日、心臓発作で倒れたブラウヒッチュ陸軍総司令官が更迭され、ヒトラー総統が陸軍総司令官と東方総軍総司令官を兼任する事となると、東部戦線は陸軍参謀本部、他の戦線はOKW統帥局が管轄する事が明文化されました。
 1942年9月、コーカサス油田地帯占領を目標とする“ブラウ作戦”を遂行中のA軍集団司令官ヴィルヘルム=リスト元帥がアジア・ヨーロッパの境界に聳えるコーカサス山脈最高峰のエルブルース山(標高5642m)に登山家の兵士を派遣して山頂にハーケンクロイツを立てさせ「我が軍はヨーロッパ最高峰を征服しました」との報告を総統に行いました。エルブルース山は、アルプス山脈の最高峰である標高4810.9mのモンブラン山を遥かに凌ぐ高峰なのです。
 ところが、スポーツ嫌いで登山にも興味の無いヒトラーは「本来の戦略目標制圧を達成出来ていないのに、そんなつまらぬ事に現(ウツツ)を抜かしているとは許し難い!」と激昂し、リスト元帥の更迭を決定します。これに対し、山岳部隊経験が長く、登山を趣味としていたヨードル大将はリスト元帥を擁護して総統の逆鱗に触れてしまい、怒り狂った総統はブラウ作戦の進展状態が捗々(ハカバカ)しく無かった事もあって「OKWや陸軍参謀本部の首脳は全部クビにしてやる」と喚き散らします。
 そして、ヨードル大将自身も前線勤務を希望したため、前陸軍参謀次長で当時第6軍司令官を務めていたフリードリヒ=パウルス上級大将との交代が計画されましたが、同年11月、パウルス上級大将以下の第6軍将兵がスターリングラードでソ連軍に包囲されてしまったため沙汰止みとなり、結局、解任されたのは陸軍参謀総長ハルダー上級大将のみでした。この間、10月18日にヨードル大将はカイテル元帥と共に英軍特殊部隊の即決処刑を正当化した「コマンド指令」に署名しています。
 なお、ヨードル大将は総統に阿諛追従するのみで「ラカイテル」と嘲笑されていたカイテル元帥とは異なり、しばしばヒトラーに食って掛かっており、ドイツ参謀将校達の崇敬の的である『戦争論』の著者カール=フォン=クラウゼヴィッツ陸軍少将(1780〜1831)をヒトラーが罵倒した際には猛烈に抗議して発言を撤回させた事もあります。
 ヨードル大将はスターリングラード戦が最終段階を迎えていた1943年1月30日に黄金ナチス党員バッジを授与され、同年11月8日にはミュンヘンでナチス党全国指導者及び大管区指導者を前に極秘演説して、東部戦線における敗北を明らかにすると共に、西方防衛のために占領地住民を強制動員して要塞建築や軍需工場に従事させる事を命令したと語るなど、重要な政治的役割も果たしています。
 ヨードル大将は1944年1月30日に上級大将に昇進しましたが、同年4月18日にはイルマ夫人が肺炎で死去しています。
 この頃からヒトラーが日常的に会うのは、事実上カイテル元帥・ヨードル上級大将・ボルマンSS大将の三人だけになってしまい、特に睡眠薬を濫用するようになっていた総統を就寝中に起こす事が出来る権限を持つのは事実上ヨードル上級大将のみになっていました。
 ところが、同年6月6日、ドワイト=アイゼンハウアー米陸軍大将麾下の連合軍がノルマンディーに上陸したとの第一報が届いた際、ヨードル上級大将は睡眠薬で就寝中の総統の不興を買うのを恐れて起こそうとしなかったため、邀撃の初動態勢が混乱する致命的な失策を犯してしまいました。
 同年7月20日、ヴォルフスシャンツェに於いてフォン=シュタウフェンベルク伯爵大佐一派による総統暗殺未遂事件が起きた際、ヨードル上級大将は軽傷を負って、二回目の戦傷章黒章を受章しています。友軍によるテロでも「戦傷」の対象になるんですね。
 ヨードル上級大将は戦況が壊滅的になっていた1945年3月7日、イルマ前夫人の友人で陸軍総司令部秘書だったルイーズ=カタリナ=フォン=ベンダ(1905〜1998)と再婚しています。
 1945年4月20日、ソ連軍がベルリンに迫る中、最後の誕生日を迎えたヒトラー総統は自らはベルリンに留まる一方、OKWを西方へ脱出させて全軍の統帥権を集約させる決定を下しました。この結果、ソ連軍の総攻撃が開始された23日にヨードル上級大将はカイテル元帥と共に総統と最後の会見をした後、空路ベルリンを脱出、ベルリン西方30kmのクランプニッツを経て、フュルステンベルクに臨時司令部を設置しました。戦況が絶望的であるにも拘らずヨードル上級大将はドイツ史上初めて統帥権の一本化が実現したため上機嫌だったと伝えられます。
 同年4月30日に自決したヒトラー総統は、海軍総司令官カール=デーニッツ元帥《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1818199879&owner_id=250900》を大統領に指名、翌日、シュレスヴィヒホルシュタイン大管区フレンスブルクにおいて新政権が発足しました。デーニッツ大統領はカイテル元帥を嫌悪する一方、ヨードル上級大将の事は高く評価していたようです。
 デーニッツ大統領は新海軍総司令官ハンス=ゲオルク=フォン=フリーデブルク上級大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1859181341&owner_id=250900》に西側連合国との部分休戦交渉を委ねましたが、頭の固い連合軍欧州方面最高司令官アイゼンハウアー米陸軍元帥は即時無条件全面降伏以外は認めないとの一点張りだったため、デーニッツ大統領も交渉継続を断念、6日午後にヨードル上級大将に全権を与えて連合軍最高司令部が置かれたフランス共和国ランスへ派遣します。その際、ヨードル上級大将は騎士十字章を授けられています。
 デーニッツ大統領は一人でも多くのドイツ兵を邪悪なソ連軍ではなく、米英軍の捕虜になれるようにしようと決意しており、そのために可能な限り降伏交渉の時間を引き延ばせとヨードル上級大将に命じていましたが、アイゼンハワー元帥の態度は冷たく、交渉に自ら出て来ずに副官を交渉に当たらせました。ヨードル上級大将のグズグズした交渉に苛立ったアイゼンハワー元帥は副官を通じて、直ちに降伏文書に調印しないならば、西部戦線を閉鎖、即ちドイツ軍将兵の降伏を認めないと通告して来たため、ヨードル上級大将は引き延ばしもこれまでと判断し、7日0241時に降伏文書に署名を行いました。休戦協定発効時間はドイツ時間8日2301時とされました。調印に際してヨードル上級大将は失意と屈辱の涙を流しています。
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 なお、休戦発効は、つまらぬトラブルからドイツ時間5月9日0015時にズレ込みましたが、ヨードル上級大将は休戦実現の功により、5月10日、デーニッツ大統領から柏葉騎士十字章を授与されました。
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 同年5月13日、カイテル元帥が連合軍に逮捕されたため、デーニッツ大統領はヨードル上級大将を第2代OKW長官に任命し、休戦後の残務処理に当たらせましたが、5月23日、アイゼンハウアー元帥は第三帝國政府を解体、ヨードル上級大将はデーニッツ大統領等と共に連合軍に戦争犯罪人として逮捕されました。ヨードル上級大将はこの逮捕にかなり動揺し、デーニッツ元帥に「先程の戦争犯罪の話をどう思われます?私たちはアイゼンハワー・モントゴメリー・ジューコフと同じように軍人としての務めを果たしただけではないのですか?」と尋ねています。
 ヨードル上級大将達はルクセンブルク大公国バートモンドルフのパレスホテルに設けられた収容所へ送られましたが、ヘルマン=ゲーリング国家元帥・カイテル元帥・ヨアヒム=フォン=リッベントロップ元外相等もここに収容されていました。
 同年8月、ヨードル上級大将達はバートモンドルフからニュルンベルクへ移送され、軍事裁判にかけられる事になりましたが、バートモンドルフ収容所長で引き続きニュルンベルク刑務所で所長を務めるバートン=アンドラス米陸軍大佐は、移送中に特にカイテル元帥とヨードル上級大将を起立させ、「御前達はもはや軍人ではない。犯罪者だ」と宣告して、階級章を剥ぎ取りました。
 同年11月20日、ニュルンベルク軍事裁判が開廷しましたが、ヨードルは第1起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第2起訴事項「平和に対する罪」、第3起訴事項「戦争犯罪」、第4起訴事項「人道に対する罪」と全ての訴因において起訴されました。被告人達の心理分析官グスタフ=ギルバート大尉が開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、ヨードルの知能指数は127でした。
 裁判に於いて、ヨードルは「軍人としての義務を果たしただけだ」と無罪を主張しましたが、コミッサール指令やコマンド指令に署名していた事から、1946年10月1日に下された判決では「彼の行いは、軍人としての服従という通念によっては如何にしても弁明しきれません」として四つの訴因全てで有罪とされてしまいました。その後の個別の量刑判決で絞首刑判決を受けたヨードルは、ヘッドホンを毟(ムシ)り取って怒った様な足取りで法廷を後にしました。量刑を巡っては連合国内でも意見の相違がありましたが、コミッサール指令を根に持っていたソ連が強硬に死刑を主張したため、厳しい判決となったのでした。
 納得出来ないヨードルは自身で減刑嘆願書を提出する一方、ルイーズ夫人もアイゼンハワー元帥・バーナード=モンゴメリー英元帥・ウィンストン=チャーチル前英国首相等に電報を打って夫の助命嘆願を行いましたが、10月13日に減刑嘆願も却下されてしまいました。
 当時、ヨードルは理髪師に母親に抱かれる自分の赤ん坊の頃の写真について聞かれ、「あの頃に死んでしまわなかったのが残念だな。こんな悲哀を味わわずにすんだのに」と語っています。
 同年10月16日0110時から処刑が開始され、自決したゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行されました。ヨードルは9番目でしたが、「我がドイツよ。挨拶を送ります」と最期の言葉を述べた後、軍人らしく堂々と刑の執行を受けました。
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 ゲーリングを含めた11人の遺体は、ミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれて焼かれた後、遺骨はイザール川の支流コンヴェンツ川に廃棄されました。
 その後、ヨードルの名誉回復を願うルイーズ夫人の控訴により、西ドイツの非ナチ化裁判は「ヨードルは自分の行動を国際法を犯さない軍事作戦のみに限定していた」として、処刑理由とされた罪状を1953年2月28日付けで取り消す決定をしました。即ちヨードルは無罪となったのです。
 ところが、アメリカ合衆国大統領アイゼンハウアー元帥が、ニュルンベルク裁判の否定に繫がる決定は許さぬと捻じ込んだため、9月3日にバイエルン州法相はヨードルの無罪判決を取り消してしまいました。
 ヨードルの墓は遺骨が無いまま、二人の夫人との共同墓として作られています。
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