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2012年02月13日17:48

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ドイツ第三帝國軍人シリーズ15 Werner Mölders 空軍大佐

 ヴェルナー=メルダースは世界史上初の100機撃墜を達成したエースパイロットであり、現在に至るまで世界各国の空軍の基本空中戦戦術となっているロッテ・シュヴァルム戦法を生み出した人物です。
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 ヴェルナーは1913年3月18日、プロイセン王国ヴェストファーレン州ゲルゼンキルヒェンで学校教師のヴィクトル=メルダースとアンネマリーの三男として生まれました。父ヴィクトルは第一次世界大戦が勃発すると陸軍歩兵中尉として西部戦線に赴きましたが、1915年3月、フランスのアルゴンヌの森の戦いで戦死してしまいました。
 そこでアンネマリーは四人の子供達を連れてブランデンブルク州のブランデンブルク=アン=デア=ハーフェルの実家に戻り、ヴェルナーはこの地で成長する事になりました。
 学齢期の時は水上スポーツに勤しんでいましたが、1931年3月に18歳でギムナジウムを卒業してアビトゥア(中等教育修了資格)を取得する頃には飛行士に憧れるようになりました。しかし当時のドイツはヴェルサイユ条約の軛(クビキ)で空軍を保有出来なかったため、メルダースは同年4月、東プロイセン州アレンシュタイン(現ポーランド共和国領オルシュテイン)のヴァイマール共和国陸軍歩兵第2連隊へ二等兵として入隊しました。
 メルダース二等兵は、同年10月1日には上等兵、1932年4月1日には軍曹に昇進、同年10月1日にザクセン州ドレスデンの陸軍士官訓練学校に入校し、1933年6月1日に卒業して曹長となりました。
 メルダース曹長は引き続いてミュンヘンの歩兵第2連隊第1プロイセン工兵大隊の工兵士官養成課程に入りましたが、1934年に入り、ヒトラー内閣が陸海軍航空隊創設計画を打ち上げると、本来パイロット志望だったメルダース曹長はドイツ航空輸送学校に転科を志願し、同年2月1日に上級曹長に昇進の上、同月6日、ブランデンブルク州コットブスの同校に入学しました。
 メルダース上級曹長は最初は飛行機酔いのため飛行任務には適さないと診断されましたが、飛行に慣れて来ると優れた技能を発揮し、同年3月1日に少尉に任官、同年12月31日に卒業した時は首席でした。
 メルダース少尉は1935年1月1日にバイエルン州シュライスハイムの空軍戦闘機搭乗員養成課程に入学しますが、在学中の3月1日に空軍が正式に創設されました。メルダース少尉は同年5月21日に操縦士資格を得た後、6月30日に卒業すると、7月1日からメクレンブルクフォアポンメルン州の州都であるシュベーリンの第162襲撃航空団第1飛行隊第1飛行中隊に配属されました。この航空団は後の急降下爆撃隊の前身で、当時は複葉機のHe50で構成されていました。メルダース少尉はシュベーリン時代にルイーゼ=バルダウフという女性と知り合い、結婚を前提とした交際を始めています。
 1936年3月7日、ヒトラー総統がラインラント進駐を断行すると、メルダース少尉はルール地方を飛んでデュッセルドルフに到着一番乗りを果たし、4月1日に戦闘機パイロットに転じて第134戦闘航空団に転勤しました。当時の制式戦闘機は複葉機のHe51《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1767413338&owner_id=250900》です。
 メルダース少尉は、同年4月20日の総統誕生日にプロモーション飛行を披露し、同時にに中尉に昇進、同航空団第2飛行隊第4中隊長に就任しました。第2飛行隊長は第一次世界大戦のエースパイロットであるテオドール=オステルカンプ少佐でした。
 メルダース中尉は1937年3月15日にヴェスバーデンの第334戦闘航空団第1飛行隊第1中隊長に転じましたが、当時激化して来ていたスペイン内戦への参加を志願し、1938年4月14日にフーゴ=シュペルレ空軍大将麾下のコンドル軍団第88戦闘飛行隊第3中隊長となってカディスに着任しました。前任中隊長はアドルフ=ガーラント中尉です。
 それまで第88戦闘飛行隊はHe51で構成されていましたが、共和国軍のソ連製全金属低翼単葉引込脚戦闘機ポリカルポフI16の前に手も足も出ない状態でした。そこでメルダース中尉は制式化されたばかりのドイツ空軍初の全金属低翼単葉引込脚戦闘機Bf109Bと共にスペインへ乗り込んだのでした。
 Bf109は、旋回性能を重視していた複葉戦闘機とは全く異なる飛行特性を持っていましたから、メルダース中尉はその高速性能を生かした戦術を考案する必要に迫られました。従来、戦闘機小隊は3機編成のケッテで運用、3ケッテで1個中隊とし、計9機が稠密な隊形を組むのが一般的でしたが、高速単葉機でこの戦術を用いると相互に接触してしまう可能性が出て来て危険であり、僚機のせいで視界が遮られてしまう問題もあったのです。
 そこでメルダース中尉は2機編隊から成るロッテ戦法を編み出しました。これは、長機が攻撃・追撃を行っている間、僚機が長機の後方約200m地点の上方で援護・哨戒を行う戦法で、長機のパイロットは後方に留意する必要が無いため、攻撃に集中する事が出来る訳です。
 ロッテ戦法による一撃離脱戦術はBf109の性能をフルに引き出す事となり、コンドル軍団は一挙にスペインの制空権を握る事となりました。更にメルダース中尉はロッテ戦法を発展させ、ロッテ2組の4機編成で1個小隊として運用するシュヴァルム戦法を考案しました。この場合、ロッテ同士に8〜10m程度の高度差を付け、互いの視界を妨げない配慮がなされました。
 以後ドイツ空軍ではシュヴァルムを戦闘機部隊の基本戦術として採用、世界中の空軍がそれに倣う事になります。シュヴァルム戦法はジェット戦闘機によるミサイル戦闘が主となった現在においても、最も効率の良い戦術・隊形とされ、世界中の空軍が採用し続けています。
 メルダース中尉は1938年7月15日に初撃墜を記録し、5機撃墜を達成してエースの称号を得た10月18日には大尉に昇進、11月3日までの4ヶ月弱で14機をも撃墜してコンドル軍団のトップエースとなり、その名声は世界中に轟き渡る事となったのです。メルダース中尉の乗機にはパーソナルマークとして“Luchs”(大山猫)と記されていましたが、共和国軍パイロットにとっては恐るべき人喰い山猫だった訳です。
 スペイン内戦がほぼ決着した1939年3月15日、メルダース大尉は貴重な空戦技術と実戦データを持って帰国、古巣の第334戦闘航空団から改称されていた第53戦闘航空団第1飛行隊第1中隊長に復帰しました。乗機はBf109E-3です。
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 同年9月1日、第二次世界大戦が勃発すると、第53戦闘航空団はシュペルレ大将麾下の第3航空軍に属してフランス国境防衛任務に着きますが、メルダース大尉は9月19日にフランス空軍の米国製カーチスP36を屠って大戦における初撃墜を記録、翌日、第二級鉄十字章を授与されました。そして9月26日には同航空団第3飛行隊長に就任、40人のパイロットを指揮下に置く事となったのです。同年12月22日には英空軍のホーカー=ハリケーン戦闘機を撃墜していますが、これはハリケーンが初めて撃墜された記録になります。
 メルダース大尉は1940年3月にルフトヴァッフェで最初に20機撃墜を達成し、4月2日には英空軍トップエースたるC.D.パーマー中尉のハリケーンを撃墜して第一級鉄十字章を受章しています。
 同年5月10日、“Fall Gelb”が発動されて西方電撃戦が開始されると、メルダース大尉は4日間で9機もの撃墜を記録しますが、5月14日にセダン上空で初めて撃墜されてしまいました。
 しかし、無事に友軍支配地域に落下傘降下したメルダース大尉は直ちに戦線に復帰してスコアを伸ばし、5月29日にはパイロットとして初めて騎士十字章を受章するに至りました。
 ところが同年6月5日、メルダース大尉は大戦における133回目の出撃をしてコンピエーニュ近くで32回目の空中戦を展開しますが、ルネ=ポミエ=ライラグー仏少尉のドヴォワチンD.520戦闘機によって撃墜され、フランス軍の捕虜となってしまったのです。なお、ライラグー少尉はメルダース撃墜の30分後に撃墜されて戦死しています。
 同年6月23日、フランス共和国はドイツ第三帝國に降伏、メルダース大尉は翌日釈放されて帰国する事となり、7月19日に少佐へ昇進してアルベルト=ケッセルリンク元帥麾下の第2航空軍に属する第51戦闘航空団司令となりました。メルダース少佐はまだ27歳で、勿論史上最年少の航空団司令の誕生でした。彼は航空団司令としてのデスクワークも迅速かつ正確にこなし、指揮官として空戦だけではない別の能力も示す事になりました。
 メルダース少佐は自らBf109F-1を駆って、同年7月10日に開始されていたバトル=オヴ=ブリテンに参加しますが、7月28日の戦闘で南アフリカ空軍のエースたるアドルフ=マラン大尉のスーパーマリン=スピットファイアーと対戦して被弾負傷し、約1ヶ月間の戦線離脱を余儀無くされてしまいました。
 しかし、戦列復帰後のメルダース少佐はBf109F-2で順調にスコアを伸ばし、9月20日には第二次大戦参戦各国のパイロットの中で初めて40機撃墜を達成、翌日、柏葉騎士十字章を受章しました。同章受章者はエドゥアルト=ディートル陸軍少将に次いで二人目でした。
 この時期、メルダース少佐は、第2戦闘航空団司令ヘルムート=ヴィック少佐・第26戦闘航空団司令アドルフ=ガーランド少佐とトップエースの座を争っていましたが、初の50機撃墜を記録したのもメルダース少佐で、10月22日の事でした。この結果、メルダース少佐は10月25日に中佐へ昇進しています。
 その後、11月6日にトップの座をヴィック少佐に奪われますが、ヴィック少佐は56機撃墜の段階で11月28日に戦死してしまい、ガーランド少佐は部隊再編のため帰国したため、以後のトップエースの座はドーヴァー海峡への出撃を続けるメルダース中佐が独占し続ける事となったのです。
 メルダース中佐は1941年2月26日に60機撃墜を達成、対英戦が膠着状態に陥る中、ドイツ国民の関心は第一次世界大戦で“レッドバロン”マンフレート=フォン=リヒトホーフェン男爵大尉が達成した世界記録の80機撃墜がいつ達成されるかに集まる事になったのです。
 しかし、メルダース中佐麾下の第51戦闘航空団が属する第2航空軍は対ソ戦に備えて同年4月1日にポーランドへ移動したため、メルダース中佐は68機撃墜の段階で暫時最前線から遠ざかる事になりました。この間にライヴァルでもあり親友でもあるガーラント少佐は西部戦線に復帰してスコアを伸ばし、6月21日に69機撃墜を果たしてトップエースの座をメルダース中佐から奪い取り、初の剣付柏葉騎士十字章受章者となりました。
 ここではガーラントに先を越された訳ですが、西部戦線に留まって強力な英空軍と渡り合っていたガーラント少佐に比べ、弱体なソ連空軍を相手取る事になったメルダース中佐はスコアを伸ばすために圧倒的に有利な立場を得ていたのでした。
 即ち、トップの座を譲った翌日の6月22日、バルバロッサ作戦が発動されて対ソ侵攻が開始されると、メルダース中佐はその日のうちにツポレフSB爆撃機3機と米国製カーチス=ホーク戦闘機1機を撃墜して70機撃墜をクリア、トップエースの座を一日で奪回して二人目の剣付柏葉騎士十字章受章者となったのです。
 続いてメルダース中佐は6月30日にソ連軍爆撃機5機を一挙に屠り、撃墜スコアを82機としました。遂に世界記録を更新したのです。この結果、メルダース中佐は7月3日に東プロイセン州ラステンベルクの総統大本営ヴォルフスシャンツェに招かれ、ヒトラー総統から祝福を受けています。ドイツ国民の次なる関心は、メルダース中佐がいつ史上初の100機撃墜を達成するかに移りました。
 その後もメルダース中佐は順調にスコアを伸ばし、第51戦闘航空団全体でも7月12日までにソ連軍機500機を撃墜する大戦果を挙げています。
 そして、1941年7月15日、メルダース中佐は2機のソ連軍機を落としてスコアを101とし、あっさりと史上初の100機撃墜を達成しました。
 この結果、ヒトラー総統はメルダース中佐のために新たに宝剣付柏葉騎士十字章を設けたのでした。メルダ−ス中佐は7月20日に大佐に昇進、7月26日には再びヴォルフシシャンツェに招かれて総統から記念のダイヤモンドを与えられました。
 同年8月7日、メルダース大佐は弱冠28歳で戦闘機隊総監に任命されましたが、国民的英雄の戦死が国民の士気低下を齎す事を恐れたヒトラーはメルダース大佐が飛行する事を禁止してしまい、以後はヴォルフスシャンツェでデスクワークに専念する事とされてしまったのです。メルダース大佐は栄誉や地位と引き換えに大空を飛翔する自由を奪われたのでした。
 また、9月14日にメルダース大佐は6年間交際を続けたルイーゼ=バルダウフと結婚、数日間の新婚旅行を楽しみ、9月28日に宝剣付柏葉騎士十字章をヒトラー総統から正式に授与されています。
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 戦闘機隊総監メルダース大佐は前線視察と称して、しばしば古巣の第51戦闘航空団を訪れていますが、実は第51戦闘航空団にはパイロット不在のBf109F-2がありました。一見普通の機体にしか見えないこの機の尾翼には100を越える撃墜マークが記されていたのです。当時100機以上の撃墜スコアを持つのは、勿論世界中でただ一人、メルダース大佐のみでした。つまり、メルダースの後任の第51戦闘航空団司令フリードリヒ=ベック少佐はメルダースの愛機を他のパイロットに委ねず、「前線視察」に訪れたメルダース大佐に提供していたのです。
 こうして、時々お忍びで空中戦に参加したメルダース大佐はさらに撃墜スコアを伸ばし、最終的に115機を屠っています。勿論、公式には101機のままだったんですが…。
 独ソ両軍が死力を尽くしてモスクワ攻防戦を展開していた1941年11月17日、第一次世界大戦で62機を撃墜したエースだった航空省技術局長エルンスト=ウーデット空軍上級大将が航空次官兼航空機総監エアハルト=ミルヒ空軍元帥による苛めに耐えかねて自殺します。国民の士気低下を恐れたヒトラー総統は、新兵器実験中の事故によるものと公式発表し、21日に帝都ベルリンで国葬が行なわれる事となりました。
 戦闘機隊総監メルダース大佐も当然国葬出席を命令されましたが、彼は当時第4航空軍第4航空軍団に属する第27爆撃航空団視察のため、ソ連のクリミア半島北部に赴いていました。第27爆撃航空団第3飛行隊長はメルダース大佐とコンドル軍団で同僚だったハンス=ヘニング=フォン=ボイスト男爵大尉でしたが、ボイスト大尉は燃料・機材が逼迫している中、やはりコンドル軍団メンバーだったヴェテランのゲオルク=コルベ中尉操縦の双発爆撃機He111をメルダース大佐のために提供してくれる事となりました。
 ところが、クリミア半島は悪天候が続いたため飛行は困難だったのです。20日には悪天候の中、国葬出席のため無理にベルリンへ向かっていたヘルムート=ヴィルベルク空軍大将の乗機がザクセン州ドレスデンで墜落し、乗員全員が死亡したとの嫌なニュースも入っていたため強行離陸は見送られ、やがて21日の国葬当日を迎えてしまいました。
 幸いこの21日は天候が小康状態となったため、メルダース大佐はコルベ中尉機に乗り込んでヘルソンチャプリンカ飛行場からベルリンへ戻る事となりました。同乗者はメルダース大佐の副官ヴェンツェル少佐と主任機関士ホビー曹長・通信士テンツ曹長でした。
 ところが離陸後、天候は再び悪化したため、コルベ中尉はベルリンまで900kmの位置にあるウクライナ西部のレンベルクに機を不時着させ一行はここで一夜を過ごします。国葬には結局間に合わなかった訳です。
 翌11月22日朝も天候は回復せず、ベルリンまでの気象状況は一層悪いとの通報が入ったため、コルベ中尉は飛行継続は無理であると進言しましたが、国葬出席が出来なくて焦っていたメルダース大佐は出発延期を納得せず、強行離陸を命じたのです。
 コルベ中尉機は強烈な向かい風が吹き荒れる中で飛行を続けた結果、燃料を想定外に大幅消費してしまい、それに加えて、ベルリンまで400km程度のシュレジエン州ブレスラウ(現ポーランド共和国ヴロツワフ)付近まで来た時に、左側のエンジンが突然停止してしまいました。コルベ中尉に、緊急着陸をするのかブレスラウ空港に向かうのかを尋ねられたメルダース大佐は近隣のガンダウ飛行場への緊急着陸を命じます。
 コルベ中尉は残った右側エンジンを騙し騙し濃い雲と吹きつける雨の中を降下しましたが、ガンダウ飛行場には濃い地表霧が一面に拡がっており、激しい雷雨を衝いて雲の下に出た時、コルベ中尉はあまりにも急激に高度を下げ過ぎてしまい、このままでは滑走路のずっと手前に接地する状態になってしまいました。
 コルベ中尉は必死で右側エンジンのスロットルを押しましたが、その右側エンジンも突然停止してしまい、飛行場の手前のロープウェーの鋼索と支柱の列が暗がりの中で目の前にどんどん迫って来たため、コルベ中尉は渾身の力で操縦輪を手前に引き、機はのろのろと機首を上げました。鋼索の上を飛び越えかけるところまでは行ったのですが、機はそこで失速し、ガンダウ飛行場に隣接したシェーンガルテン郊外の工業地帯に低空から落下、コックピットの後方で胴体が折れてしまいました。
 コックピットの右側に座っていたメルダース大佐は安全ベルトを締めていなかったため前方に投げ出され、脊髄骨折と胸部強打のため即死してしまいました。空の英雄の余りにも呆気無い最期でした。享年28。
 コルベ中尉と後席のホビー曹長も死亡しましたが、後席のヴェンツェル少佐とテンツ曹長は生き残り、事故の詳細を詳しく伝える事が出来ました。シートベルトをしていたコルベ中尉は病院へ運ばれる途中まで生存していましたから、メルダース大佐もシートベルトさえしていれば一命を取り留めていた可能性はあります。
 メルダース大佐の葬儀は11月28日にベルリンの航空省で行なわれ、ヒトラー総統・ゲーリング国家元帥以下の政府・軍首脳が出席、メルダースのライヴァルで親友だったガーラント中佐が儀仗隊長を務めました。ゲーリング国家元帥は、この葬儀の場でガーラント中佐を後任の戦闘機隊総監に任命しています。
 メルダース大佐の遺体は帝都郊外ティアガルデンの戦没者墓地のリヒトホーフェン男爵大尉とウーデット上級大将の近くに埋葬されました。
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 メルダースの名は戦後の西ドイツでも英雄として高く評価されて、西独空軍第74戦闘航空団の部隊名に継承され、西独海軍のリュッチェンス級駆逐艦のニ番艦の名としても用いられました。
 1998年4月になってヘルムート=コールCDU内閣はコンドル軍団参加者の名誉剥奪法を制定、コンドル軍団参加者は全てワルモノ扱いをされる事となってしまいましたが、国民的英雄であるメルダース大佐は事実上例外扱いをされて、第74戦闘航空団の名称は据え置かれ、駆逐艦メルダースも2003年の退役まで改名される事はありませんでした。
 ところが、2005年1月にゲアハルト=シュレーダー社民党内閣のペーター=シュトルック国防相は法を厳格に適用、過去にメルダース大佐へ与えられていた全ての名誉を剥奪し、第74戦闘航空団を改称してしまったのです。この偏向措置には空軍関係者のみならず、多くの国民が反発、同年9月の総選挙で社会民主党がアンゲラ=メルケル党首のCDU(キリスト教民主同盟)に僅差で惜敗する一因となったとも言われています。

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